大判例

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東京地方裁判所 昭和44年(ワ)7709号 判決 1971年12月13日

原告

川村セノ

代理人

鳥生忠佑

外八八名

被告

右代表者

前尾繁三郎

右代理人

武内光治

外六名

被告

東京都

右代表者

美濃部亮吉

代理人

吉原歓吉

外三名

被告東京都補助参加人

古井戸三郎

代理人

山下卯吉

外一名

被告

港区

右代表者

小田清一

代理人

宮島優

被告

青森県

右代表者

竹内俊吉

代理人

小山内寿栄

外四名

主文

一  原告に対し被告東京都および被告港区は各自金五〇万円ならびにこれに対する年五分の割合による金員を被告東京都は昭和四四年七月一八日から、被告港区は同年同月一九日から右完済まで支払え。

二  原告の被告東京都および被告港区に対するその余の請求ならびに被告国および被告青森県に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用中、原告と被告東京都および被告港区との間に生じたものは右被告らの負担とし、原告と補助参加人との間に生じたものは補助参加人の負担とし、原告と被告国および被告青森県との間に生じたものはいずれも原告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮りに執行することができる。

事実

(請求の趣旨)

一  原告に対し被告らは各自金一〇〇万円ならびにこれに対する年五分の割合による金員を被告東京都は昭和四四年七月一八日から、被告国および被告港区は同年同月一九日から、被告青森県は同年同月二二日から右完済まで支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  この判決は仮りに執行することができる。

(請求の趣旨に対する答弁……全被告共通)

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

三  仮執行の宣言を付するときは、担保を条件とする仮執行免脱の宣言を求める(但し、本項は被告国青森県のみ)。

(請求原因)

その一……由松の遺体解剖を原因とする被告らに対する損害賠償請求

第一本件事実の経過

一吉松の最後の出稼ぎから死亡まで

(一) 由松が出稼ぎに出るに至つた事情とその当時の生活状態

訴外亡川村由松(以下単に由松ともいう)の家庭は妻である原告の経営する大衆食堂「大陸食堂」の経営が次第に不振に陥つたことから生活がきびしくなつてきたため、由松は昭和三七、八年頃から腰痛を押えて北海道ないし神奈川方面に出稼ぎに出るようになつた。しかし、由松が出稼ぎに出ても、由松からの送金は、月三千円ないし一万円という低額のものであり、原告の生活は経済的に一向に楽にならなかつた。

昭和四一年原告は年々体力の衰えてくる由松のため、その気丈な性格からも気の進まなかつた生活保護申請を申請することを決意して、由松の従兄である十和田市市会議員川村末吉に生活保護申請の取次方を要請したところ、その後暫くしてから、原告自身もかねてより面識のある市福祉事務所職員浜中俊三が原告方に訪れた。浜中は、原告らの申立てた生活保護申請の件について、電話機が設置されていること、原告が飲食店経営という営業行為をしていることを理由に生活保護を受ける資格を欠いていると告げたうえ、どうしても保護を受けたければ離婚をして籍を抜けと指示し、その具体的手続は福祉事務所で取りはからう用意がある旨を約した。しかし、原告らはそれまでして生活保護を受けようとは考えなかつた。

右のようにして、結局十和田福祉事務所は、老令で身体の衰弱した、しかも身体障害者の由松に対し、年老いた妻がおりそれが形ばかりにもせよ店舗営業をして電話をもつているということを理由に、生活保護の申請を拒絶した。

そして、他に生きる術をもたない由松は、生活保護申請の拒絶によつて万策ここにつき、例年より三カ月余り遅れて同年八月一八日、知人桜田春蔵とともに、最期の出稼ぎに出発した。

(二) 由松の出稼ぎ先での就労状況と解雇

由松は、昭和四一年八月一八日十和田を発ち同月下旬より、愛知県知多郡知多町日長地王谷梅田工務店に現場労働者として採用され、就労したが、老令で身体障害のある由松には、他の若い健康な労働者と同等の労働は到底できなかつた。そして同年九月には誤つて電車の進行を妨害し、その労働能力や健康状態も疑われ、これ以上の労働は困難である旨告げられ、翌一〇月六日同工務店を解雇されるに至つた。

同日朝、由松は名古屋駅出札口にて東京までの乗車券を買つたうえ、同駅小荷物係にて十和田電鉄三本木あて小荷物(段ボール箱で内容は「茶」)と国鉄横浜駅あての手荷物の各搬送を委託し、ふろしき包みとボストンバックを各一携帯しただけで同日午後の上り列車でひとり東京方面に向つた。

(三) 行き倒れた由松の発見と京浜中央病院への収容

由松は同月九日午前九時過ぎ頃、東京都品川区大井一丁目七番小松自動車株式会社前路上において行き倒れているところを通行人に発見された。報知電話を受けた東京消防庁指令により大井消防署救急隊長遠藤正治以下四名の隊員らは、九時二七分頃現場に到着し、作業服を着て作業帽(岩崎組のネームが入つている)を被り、箒を手に握つたままうずくまるようにしていた由松を救急車に収容した上、京浜中央病院に輸送し、午前一〇時頃その収容手続を採つた。

その時点での由松の病状は、行き倒れ地点では意識がもうろうとして意思を伝えることもできず、独力で立ち上がることもできない程に体力を消耗していた。そして、京浜中央病院にて当直医高田貞夫の診断を受けた時点では、栄養失調、過労・睡眠不足・全身衰弱の症状が激しかつたが、医師らの問いに対し、「青森県の川村由松・六五歳」と答えることはできる状態であつた。

同病院において、由松が空腹を訴える態度を示したため、看護婦伊賀和子(現在岩井和子)がパン(一ないし二個)と牛乳を買い与えたところ、由松はこれを摂取した。

(四) 都立民生病院への転送と由松の死亡

由松は京浜中央病院において当直医高田貞夫の診察と看護婦伊賀和子の看護を受けた結果、いわゆる一般状態が依然悪く入院治療の必要があると認められたが、同病院は看護婦の数も少く、入院には付添を要する個人病院であつたため、身寄りがはつきりしない由松には付添いにも支障をきたす等の事情が考えられたため、高田医師および伊賀看護婦は協議のうえ、身寄りのない者を収容する他の適切な病院に転送するほうが適当だと判断し、その旨救急隊員に告げた。同救急隊員らは、その趣旨を了解して由松を再び救急車に乗せて、結局、在院時間三〇分余りで同病院を離れ、都立民生病院へ転送し、午前一一時過ぎ同病院に収容した。

民生病院では神田医師が由松の診察診療を担当したが、由松は入院時既に呼吸が困難な状態にあり、正午前後やや軽快したものの、その後再び呼吸困難に陥り、正午過ぎより午後二時四〇分頃まで神田医師らにより種々医療措置を施されたが、結局病状は更に悪化し、同日午後三時、冠動脈硬化症・脳軟化症・急性肺炎のため同病院で死亡した。

その年令は満六五歳であつた。

二遺体の身元調査と取扱い

(一) 民生病院における由松死亡後の措置

由松死亡の事実は、民生病院から大井消防署救急隊に連絡し、同救急隊遠藤士長は、さらに大井警察署が遺体身元捜査の担当であるとして、同署の捜査係田中千一に対してその事情を告げたので、右田中は鑑識課の渡辺金平を同行して民生病院に行つた。田中らは同病院の遺体安置所に行き、由松の遺体の情況を確認して、由松着用の衣類等の調査をなした。着衣には、上衣、ズボン、下着ワイシャツ(カワムラのネーム入り)、岩崎組名入りの作業帽などがあつた。これら衣類等はそのまま安置所に置き、両名は、所持品在中の茶封筒を持ち帰つた。その中には腕時計二個、現金一〇、二一九円、黒色二つ折ビニール製財布(以下本件財布という)があり、この財布には、「東洋興産株式会社、電話五三七番」という文字が刻まれており、さらに財布の中には、

(イ) 「大陸食堂様、昭和四一年七月二四日、合計金額二四〇円、朋、数量八、単価三〇円、二四〇円、領収済、十和田市初田七ノ三、有限会社米田製材所取締役米田徳次郎、電話二一八一番」と記載された納品書(以下本件納品書という)

(ロ) 「番号〇五一、昭和四一年一〇月六日、着駅三本木、三沢経由十和田、個数重量七、運賃二七〇円、配達料七〇円、名古屋駅」と記載のある受託用小荷物切符(以下本件小荷物切符という)

(ハ) 「番号五六三、昭和四一年一〇月六日、着駅横浜、人員一、個数一、運賃一八〇円、名古屋駅」と記載のある第二種受託用手荷物切符(以下本件手荷物切符という)

(ニ) 国電の切符五枚入りのマッチ箱

(ホ) 成田山の御守札

等々が入つていた

田中らは、右諸資料の存在を認めながらもこれを無視し、あるいは全然これらの資料の存在については気がつかなかつたものである。

(二) 大井警察署の扱い

1 大井警察署岩男英明は、犯罪捜査の立場から「青森県、川村由松、明治三四年生れ」ということで、警察庁に対し、前科犯歴者を対象として抽出される氏名照会をなし、それとともに茶封筒に入れた所持金品を港区役所に引渡すべく防犯係の前田義男にこれを渡した。前田はこれを港区役所の宿直員に引渡した。

岩男の氏名照会に対し警察庁より回答があり、生年月日の違う同姓同名人が青森県三戸市川内村一三に存在することが判明したので、この人間について岩男は翌一〇日青森県警に照会をなした。

2 同月一二、三日頃、大井警察署防犯係は、港区役所係員関武夫が所持品の中から本件納品書などを本件財布の中からみつけて「所持品中に身元判明に役立つと思われる納品書とチケット二通あるが、捜索上に必要ではないか」との連絡をうけたが担当警察官は「現在該当者と思われる者がいるのでそれは必要ないだろう」と回答した。

3 その後大井警察署は氏名照会によつて抽出した青森県三戸郡の同姓同名人は健在で本件川村由松とは別人であることが判明してからも、港区役所に対し身元判明資料の内容等について何ら問い合わせるなどの処置をとらなかつた。

4 由松の身元不明死体票は同年一一月一八日に作成され、警視庁を経て警察庁に送付された。

5 被告国・東京都は本件手荷物切符について昭和四一年一〇月一〇日横浜駅に問い合わせをしたというがこれは事実に反する。なぜなら由松は六日にチッキでこの荷物を送つているのだから、一〇日には横浜に真いていた筈である。仮りに未着であつたとしても、警察からの問い合わせがあつた品物につきすぐに公売処分にする筈もないからである。

(三) 警視庁遺失物係の処置

警視庁総務部会計課遺失物係は、同一〇月七日頃、由松名義の遺失物(衣類、腕時計、失業保険証入りのボストンバック)(他に日記帳が入つていた筈である)が東京駅構内において発見され、その送付を受けた。在中品に鶴見公共職業安定所の川村由松名失業保険証があつたので、同係の三橋満次は同安定所に対して遺失主由松に連絡方依頼のハガキを出した。

(四) 港区役所の取扱い

1 港区は四一年一〇月九日、大井警察署より連絡を受け、当日の日直田中隆紀、桑野信弘が「死体及び所持品引渡書」と題する文書および所持金品を受領し、翌一〇日奥野哲郎が由松の検視に立会い由松の衣類を受け取つた。そして一一日に港区厚生部福祉課援護係員関武夫が援護係長飯泉富夫、福祉課長水野鶴代をとおして右文書および金品衣類の引継ぎを受けた。

その内訳は次のとおりである。

(イ) 現金一〇、二一九円

(ロ) 腕時計二個

(ハ) 本件財布(本件納品書等が在中していた)

(ニ) 川村姓の印鑑

(ホ) 衣類等数点(岩崎組の名前入り作業帽を含む)

2 関は、前記各所持品を点検し、特に本件納品書が行旅死亡人の身元調査に重要な手懸りを与えるものであること、大井警察署が行旅死亡人の取扱いに不慣れであり、身元調査も不慣れではないかと懸念し、大井警察署に二度に亘り電話をして、納品書等があるが手懸りになるのではないかと念を押している。

しかし、大井警察署は関よりの第一回の電話(前記金品を引継いですぐ電話した)に対し、防犯係に後で連絡させるとのみ応え、同日午後の再度の電話連絡に対し、資料に基づいて調査中であるから心配ないとのみあやふやに答えて、更に後日、大井署より「川村由松と同姓同名人は健在である」との電話連絡を受け、関もそれ以上確かめることなく放置した。

そして関は臭気、汚損がはげしいとの判断で前記衣類、作業帽を焼却処分している。

3 行旅病人及び行旅死亡人取扱法第九条によると「行旅死亡人の住所、居所若は氏名が知れざるときは市町村長(特別区では区長)は、その状況相貌遺留物件その他本人の認識に必要なる事項を公署の掲示場に告示し、且官報若は新聞紙に示公すべし」となつているが、被告港区は告示・公示等何らなさなかつた。

(五) 慈恵医大での取扱い

被告港区は慣例に従い、東京慈恵会医科大学(以下慈恵医大という)に、かねて印をついて預つていた解剖用遺体交付申請書に、必要事項を記入して同交付証明書を添えて、昭和四一年一〇月一一日由松の遺体を交付し、慈恵医大は、同四二年五月一一日解剖に着手するまでの間、ホルマリン等の防腐剤を体内に注射して防腐処置を講じたうえ、「冷蔵庫に入れて保管」した。

三原告らの探索活動および関係公務員の対応措置

(一) 原告が由松の行方不明を知つた事情

原告は同年九月半ばころに桜田春蔵から手紙で、由松が「電車を止めた」とか「仕事があまりパッとしない」との理由で梅田工務店を退職させられる事態になつていること、由松も「横浜の方に行く」といつていたことを知らされて、原告は「万一のことがあつたらいけない」と心配するあまり、梅田工務店の電話番号を調べたうえ、由松に電話で帰郷を求めた。ところが同年一〇月一一日消印の桜田春蔵からの原告宛の手紙により、由松は、すでに梅田工務店を退職させられて、名古屋駅から発つたことを知らされて、原告の心配はいよいよ高まつた。

同年一〇月六日付で名古屋駅から発送された小荷物(お茶)が二、三日後に十和田の三本木駅を通して原告に配達されたにもかかわらず、由松は帰郷しないばかりか何の音信もなかつたことから、原告はこのころ梅田工務店の社長宛に由松のことについて問い合わせの手紙を出すとともに、由松の前年の出稼ぎ先である横浜市鶴見区寛政町一五所在株式会社佐久間鋳工所に対し由松が立寄つているかどうかについて問い合せた。梅田工務店宛の問い合せに対して桜田春蔵からの同年一〇月二一日付消印のある手紙で原告は、「由松が昭和四一年一〇月五日夜、給料を頂き、六日朝、梅田工務店を出て名古屋駅にいき、横浜までの切符を買つたこと、名古屋駅を発つに際し、ボール箱二つを一つは三本木駅へ(これが原告が受けとつた荷物(お茶)である)。一つは鶴見へ発送していること、由松は、身体が相当に弱つているようであつたこと、前年の出稼ぎ先である鶴見に行つたかも知れないこと等」のことを知つた。

それに先立つ同年一〇月一五、六日頃、ボストンバックの拾得があつた旨の、同年一〇月一三日付消印の拾得物通知を受けた原告の不安と焦躁はますます高まつていつたが、体を悪くしていた原告は自ら上京することができず、同年一〇月一七、八日頃由松の妹と妹の子にあたる小山田博見、由松の弟の子である川村武ら親せき間での相談の結果小山田博見と川村武の両名が、ボストンバックの受領と行方不明の由松の所在探索のために上京することになつた。

(二) 由松の所在を探すための行動

小山田博見の探索の届出

昭和四一年一〇月二〇日ごろ、行方がわからなくなつた由松を夢にまでみるようになつたという原告の不安と焦躁を知つた小山田博見は、十和田警察署に由松の探索願を届け出た。

これに対し、同署防犯係巡査出町善次郎は、「未成年者であるとすぐ手配をつけるにいいだけれども、成年に達している者であるとそうは簡単にいかない」、「警察の方も手も不足でなかなかその手がまわらない」と話し、由松についてすぐに手配をしないような態度をみせたが、小山田の強い捜索要求の前に「一応照会してみよう」という話になり、「困り事相談」として処理した。その結果小山田は捜索願は受理されたものとして帰つた。

2 小山田博見、川村武の上京後の探索

昭和四一年一〇月二三日夜行で上京した小山田博見と川村武は、小山田博見の妻のおいに当る川村八太郎に連絡し、共に飯田橋の警視庁総務部会計課遺失物係に同月二四日午後二時すぎ到着した。小山田博見が、遺失物係である三橋満次に対し「由松本人ではなく代理人である」こと。由松の所在がわからず探索にきた事情を説明し、遺失物係から衣類、腕時計、失業保険証ボストンバック計四点を受領したが、この際三橋は警視庁警察官として捜査手続等何もしてくれなかつた。

右三名は遺失物を受領したのち、すぐその足で鶴見の佐久間鋳工所を訪れ、由松の所在を捜索したが、手がかりはつかめなかつた。博見と武はさらに出稼ぎ先であつた梅田工務店に出向き、そこで同工務店の社長や桜田春蔵らと会い、由松の退職のいきさつをたずね、また名古屋駅で小荷物取扱所の荷物の送り状の控を調査して由松が一〇月六日一個の小荷物を十和田市の三本木駅経由の配達付、他の一個を横浜駅留でそれぞれ発送していることを知つた。

博見と武は名古屋から上京する途中、横浜駅で下車し、同駅の小荷物係に、由松が名古屋から横浜駅留で送つた小荷物の行方について調査を依頼したが、混雑していて探し出すのは容易でないとの理由で荷物の行方は調査してもらえなかつた。さらに二人は佐久間鋳工所を再び訪れ、由松の友人関係について調査したが、手がかりはつかめず、東京に戻つた。翌日、小山田は川村八太郎に再び会い、同人に由松の写真を渡し「職業柄だから、そういつた写真なんかでてきたら比べて、その本人だつたらすぐ連絡してほしい……」旨を依頼し、十和田に帰つた。十和田に戻つた二人は原告に対し東京・横浜・鶴見・知多郡・名古屋駅での一連の探索活動を詳細に報告したのである。

3 由松探索のための原告の行動

原告は右報告をうけて、その不安はいよいよ極に達し、直ちに(同月末ころ)川村末吉と共に十和田警察署を訪れた。受付で、川村末吉が捜索の願いにきたことを告げたところ、受付の係員は、捜索願は、小山田博見がちやんと頼んでいるから大丈夫だとの答えであつたが、末吉の案内で江戸刑事に会い、由松から送られた「荷物だけが届いている」こと、「東京駅で由松の荷物が拾得されている」こと、手紙を示しながら「桜田さんから梅田工務店を辞めて名古屋を発つた旨の手紙がきている」こと、「博見や武に探索してもらつたが、行方がわからない、どうもおかしい」こと、由松は「手も悪く体も年である」こと「手紙も来ない」ことを話し、由松の行方の探索を依頼した。これに対し江戸刑事は、「心配しなくも、すでに妹さんの子供(小山田博見のこと)がきている」、「どや街にでもいつて手紙を書いて出す暇もないのだろうから心配しないでよい」「十月は帰つてくるからお帰んなさい」といい、心配だから捜索願をお願いしますという原告に対し、「捜索願という……小さいことに使う経費がない」と答え、なかなかとりあげてくれないという印象に怒つた原告の抗議に対しても江戸刑事は、「犯罪者じやないし、そういう小さいことに使う経費がない」と言つて、不当にも再三再四の原告の捜索依頼を無視する態度を取つた。

その日原告と末吉は十和田市社会福祉協議会内の「出稼相談所」に出向き、そこの係員である佐々木という人に、由松の行方が分からないこと、警察にも捜索願を出していること等の事情を説明するとともに、由松の行方探索への協力を申し入れた。

4 昭和四一年一一月の探索活動

十和田署から由松の捜索願は小山田博見から出されている旨をきかされ、当然ながら小山田博見の捜索願によつて由松の探索は開始されていると考えた原告は、同年一一月中にも単独で二、三回にわたつて、十和田署を訪れているが、何もきくことができなかつた。

5 同年一二月の探索活動

同年一二月にも原告は、福祉協議会の佐々木と共に十和田署を訪ねたが、警察の返事は「まだなんとも通知がない」ということであつた。同月には原告は、佐々木氏を通して警察の由松の捜索に役立てるため由松の写真四枚を渡している。

6 昭和四二年一月の探索活動

原告は、川村末吉氏や佐々木氏と共に十和田署を訪れ、捜索の結果を尋ねると共に、由松の身体の特徴や健康状態立廻り先等、警察の捜索活動に資する事項をくわしく述べている。

7 同署巡査出町は昭和四二年一月二八日になつて「家出人手配簿を作成し、公開による一般手配、立廻り先は各地の職安、工事場、関東、関西」として県警本部の相馬に連絡問合せをしたが、「出稼ぎ者であり立廻り先も特定されていないので手配は出来ないし、家出人としても取扱えない。」との返事を受け、そのまま何の処置もとらなかつた。

8 昭和四二年三月末出町は転勤に際し十和田警察署事務吏員槙和男に事務引継ぎをなしたが、由松に関し家出人票作成の必要がない旨強調した。

9 同年二月以降六月までの探索活動

原告は同年二月以降五月までの間にも毎月一回以上十和田署にいき、由松の所在判明の有無について尋ねている。そして同年六月には、体を悪くし、一ケ月近くねたりおきたりの状態であつたため、ついに十和田署を訪れることができなくなつたのである。

以上が、原告が、由松の行方不明の事実を知るに至つたいきさつ、および由松探索活動の経緯並びにその結果についての概略である。老令で身体の不自由な由松が出稼ぎに出たあと、原告がいかに由松のことを心配し行方の足取りがわからなくなつた由松の身の安否を気づかい、不安とあせりはいよいよ高まり身心とも疲れ果てて、ついに病床に伏すに至つた一連の経過が歴然としているといえる。

四慈恵医大での解剖

由松の遺体は、学生四人が二回に分けて行うことになり、昭和四二年五月一一日に解剖に着手し、六月下旬まで一回分(0.5体)の解剖を終了し、原告が由松の遺体引き取りのため同大学を訪れた七月七日には、第二回分(残り半体)の解剖が行われていた。

第一回分の解剖は、頭部と上肢から着手し皮膚をはぎとり、血管や神経系統、皮下脂肪の状態、筋肉の起始、附着、発達状況、筋肉内の神経、血管系統を調べるものであつた。したがつて、遺体引渡し時には、上肢は、皮膚をはぎとられ、首から上は筋は完全に露出し、場所によつては切断され、脂肪等もとられて脂肪組織もなくなつており、頭蓋骨も割れ、切断され、眼球もいつたん摘出されたうえ、また差し込まれており、血管や神経は全部露出し、骨も場所によつては出ていて、下肢も皮下脂肪が出され、場所によつては、筋膜も出ていた。

第二回目の解剖部分も、皮膚をはぎ取り、皮下脂肪をはいであつた。

このようにすでに、誰であるかを判別することが不可能な程度に、由松の遺体は原形を止めていなかつたのであつて、普通人がみれば、気分を悪くして卒倒する程度であつたことはいうまでもない。

五原告、由松の遺体との対面

(一) 昭和四二年六月二四日十和田署吏員の槙は由松について家出人票を作成し、それは青森県警を通して警察庁に送られた。

(二) 警察庁刑事局鑑識課身元係扇田静枝は、昭和四二年七月七日青森県警より送られた家出人票をもとに、保管中の昭和四一年一一月一八日大井警察署によつて送付された身元不明死体票と照合して同一人の川村由松と判断して、これを青森県警本部と警視庁に連絡した。

(三) 昭和四二年七月五日午前、十和田署から“行方不明者の写真が県警本部からくるから……一時ころ来て下さい”との連絡を受けた原告は、由松の妹と川村武に連絡をとり由松の妹と二人で十二時すぎ十和田署に赴むき、捜査課の刑事から、身元不明者の写真帳を見せられた。原告はそこに由松の写真を発見した。

(四) 原告は小山田博見、川村武の二人と共に七月七日朝東京に着き、さつそく大井警察署を訪れ、そこで田中千一巡査部長から由松が解剖されたことを聞かされて衝撃を受けた。原告は由松の遺体はお骨にしてどこかの寺にでも安置されているものとしか考えていなかつたのであり、まさか解剖されているなどということは予想だにしていなかつた。原告は港区役所にいくようにいわれて、同日午前一〇時ころ、小山田博見、川村武の二人と共に、港区役所に行き援護係の関武夫と会つた。そこで原告は関から、由松の遺体が慈恵医大で保管されて研究に使われている旨聞かされ、大井署で解剖されていることをきいても半信半疑でいた原告は、目の前がみえなくなるほどのショックを受けた。関は、慈恵医大と電話連絡した結果、原告に対し「三ケ月待つて下さい。三ケ月待つたらお骨にして送る」と述べたが、原告は即座にこれを断つた。

原告は関から本件財布、本件納品書、本件小荷物切符本件手荷物切符、時計、一万余円の現金、等を受領した後、由松の遺体引取のため、同日午後、東京慈恵医大の霊安室に赴むいた。

原告らの到着前に港区役所から、原告らが由松の遺体引取りに来る、との連絡をうけていた同大学は、由松の遺体を、解剖材料保存室から同大学内設置の線香とローソクの置かれた小さな霊安室に運び込み、棺に入れ蓋を釘付けにして置いてあつた。

由松の遺体はすでに同大学において第三回目の解剖の途中であり、研究解剖用遺体が不足している事情から、できうれば由松の遺体解剖を続けたかつたので、同大学助手の加藤征は「三ケ月待てばお骨にしてかえす」といつて、直ちに遺体を引渡すことに難色を示した。

しかし、葬式をすませて由松を早く成仏させたいと願つていた原告は、同大学の申し出を断わり、続けて遺体との対面を強く要求した。

同大学は、原告の了解をえて、研究解剖を続けたいと考ていたため由松の遺体は、棺の中で、包帯もまかれず、バラバラの状態で入れられていたにすぎなかつた。原告の対面要求に困り果てた同大学は、由松の遺体を再び解剖室に運び込み、「白い衣」で包んだうえ棺の蓋を開けて霊安室に持ちかえつた。

原告が、くちびるはなく、顔の皮もはぎとられ、鼻はバンソウコウでくつつけられた変わり果てた哀れな姿のわが夫由松と対面したのは、出稼ぎに出た由松と別れて実に三二四日目であつた。この瞬間は、原告の脳裏に焼きつけられ、一生忘れ得ない悪夢のような現実であつたことは明らかであろう。

原告ら三名は、由松の遺体を引取りその日のうちに火葬したうえ、その晩青森へ向かつた。めまぐるしい一日を終つた原告は、全身から崩れるような悲しみに打ちひしがれたことはいうまでもない。

第二被告らの責任

一東京都の責任

(一) 警視庁大井警察署員らの過失

1 所持品による調査の懈怠

(1) 警視庁大井警察署は、管轄区域内において行旅死亡人を発見した場合、その者の所持品、その内容等を精査すると共に発見者からの事情聴取、現場付近の聴きこみ調査をなして行旅死亡人の住所・氏名を調査確認し遺族に通知し遺体を速やかに引き渡すべき職務上の義務を負つている(死体取扱規則第四条、同規則運用について)。

然るに、大井警察署は本件川村由松の身元調査にあたり、当然要求される基本的注意義務を怠り、重大な過失を犯し川村由松を身元不明者として軽卒に処理した。即ち、由松が昭和四一年一〇月九日、午後三時頃死亡したとき、身元判明資料として前記諸資料があつた。従つて本件納品書に記載された米田製材所を通して直接川村由松を聞くなり、又は大陸食堂の住所を問いただせば、由松の住所は簡単に判明できた。大陸食堂へ米田製材所が納品しているし、両者は距離にして二〇〇米の近所である。又、大陸食堂は由松の妻セノが二〇年来経営し、十和田市東三番町付近に知れ渡つているからである。本件小荷物切符だけでも由松の身元は調査確認できる。この荷物は、配達付であり、現実に川村由松の家に着いていたから、この切符をもつて三本木駅に照会すれば、由松の住所は簡単に確認できた。更に本件財布からも由松の身元は確認できる。青森県の川村由松と称していたから、青森県下の数年来の電話帳簿等で東洋興産株式会社の住所をつきとめ、右会社を通し由松の住所を確認できる。右会社は現在解散しているが、昭和三〇年頃、青森県十和田市五丁目に存在し、その代表者である江橋誠一は青森県会議員で十和田市東三番町に居住している。

以上の資料から、由松の住所の調査確認は極めて簡単にできたはずである。

警視庁大井警察署は、これらの資料の存在に気づきながらこれらの資料に基く調査を全く怠つたか、全く気づかなかつた。

(2) 青森県警に対する不適切な照会

警視庁大井警察署は、本件財布・納品書・小荷物切符等を基礎に米田製材所、大陸食堂、東洋興産株式会社の所在を明らかにし、これらを手がかりに、川村由松の身元を青森県警察本部を通じて明らかにするべきであつたが、青森県警に照会する場合にも、これらの資料を全く無視した。

また、少くとも青森県の川村由松ということは、大井警察署も解つていたのであるから、青森県警に対し、特定することなく青森全県下の全ての川村由松の照会ないし所在調査をするべきであり、かかる全県への照会、所在調査は青森県下の市町村に戸籍照会を考えただけでも十分に可能である。

ところが、大井警察署は、青森県川村由松、明治三四年生れの氏名照会を警察庁鑑識課に対してなしたにすぎなかつた。氏名照会による調査は、全国の犯罪経歴者という一部の者の指紋原紙に基づく調査であり、本件川村由松が前科・前歴のあつた場合にのみ妥当する調査方法である。青森県警から右川村由松が健在であるとの回答を得た後、大井警察署は前記調査の限界をさとり、再度青森県警へ青森全県下の全ての川村由松の住所の調査を依頼すべきであつたにもかかわらず、わずか一回の特定照会で打切つた。

(3) 本件手荷物切符による調査の懈怠

本件手荷物切符により右手荷物を捜査すれば、その荷送人の氏名、住所、在中品から由松の住所を確認することができたのにこれを怠つた。仮りに横浜駅に問いあわせた結果未着との回答を得たのであれば、更に積極的に数日後に連絡して調査すべきであるのにこれすら怠つている。

(4) 身元不明死体票作成の遅滞

大井警察署渡辺金平巡査部長は昭和四一年一〇月九日、由松が身元不明者であることを認識した。さらに、青森県警への身元照会で由松の身元は確認できなかつたことを同月一一日の段階で認識していながら、現実に身元不明死体票を作成したのは、前述(第一の二の(二)の4)のとおり昭和四一年一一月一八日であつた。

警視庁家出人及び迷い子取扱規程一条は、身元確認の措置を迅速、的確にすることを規定し、同一七条は、警察署長は、身元が不明のときは身元不明死体票を作成し、鑑識課に送付し、その身元を照会しなければならないと規定している。渡辺の措置は、第一条の迅速、的確に身元確認をすべきとの規定に明らかに違反している。

(5) 遺体交付後の調査義務の存続

大井警察署の身元調査義務は、区役所への遺体交付の前後を問わず継続する。死体取扱規則一条は、死因の調査、身元の照会、遺族への引渡、市区町村長への報告等の手続を定めており、同規則六条は、遺体の引渡後も警察に調査義務があることを前提としている。逆に引渡後は警察の調査義務が消滅するというような規定は全く存在しない。

また、「警視庁死体取扱規程についての注意」でも第九条関係として着衣、所持金品等を引き渡す場合、その一部を身元確認の資料にするため、保存しておくことを義務づけている。このことからも、調査義務は継続する。

(6) 調査義務懈怠と損害発生との因果関係

死体解剖保存法第七条一号は、死亡確認後三〇日を経過しても、その死体について引取者のない場合には、遺族の承諾なくして解剖できる旨規定され、右規定は警察官が知悉しているべきものである。しかも、由松死亡当時は解剖用遺体は著しく不足し、身元不明死体を各大学の医学部がもらいうけることに血まなこになつていた。この過当競争を回避し、均分割当を保障するため、死体収集協議会が設置されていた程である。従つて、大井警察署警察官らは、由松の遺体も死後三〇日後に身元が解らなければ当然に解剖される運命にあることを認識していたし、少くとも普通の常識ある者は認識することができた筈である。本件由松も身元が確認できねば三〇日後に解剖されるべきものとして慈恵医科大学へ直ちに交付され、三〇日の月日を死体冷蔵室の中で待たされていた。

(二) 警視庁遺失物係の過失

1 警視庁は都公安委員会管理の下に都警察の事務をつかさどる。都の区域を分ち各地域を管轄する警察署をおく。警視総監は警視庁の事務を総括し、警察署長を指揮、監督する(警察法四七条二項、五三条、四八条)。警視庁と警視庁大井警察署は一体不可分の関係にある同一体である。従つて、警視庁本庁と警視庁大井警察署は、常に一心同体の関係にあり、行旅死亡者の身元調査においても相互に緊密な連絡をとり、協調し、調査を共助し効率的運営を期して行わねばならない(犯罪捜査共助規則、警察運営規則二条参照)。

2 警視庁大井警察署渡辺金平鑑識担当巡査部長は、昭和四一年一〇月一一日由松の死者身元照会書を作成し、同日、警視庁刑事部鑑識課を経て、警察庁刑事局鑑識課へ送付した。同課は由松の指紋原紙が発見できず、この旨を死者身元照会書に記載して警視庁刑事部鑑識課へ送付した。警視庁刑事部鑑識課では、同月一九日同課保管中の指紋資料と対照したが、該当者なく、その旨を死者身元照会書に記載し、これを大井警察署刑事課鑑識係へ返送した。従つて警視庁は川村由松が身元不明者であることを十分に認識していた。

3 警視庁総務部会計課遺失物係は、同月一一日東京駅長から川村由松の遺失物の保管転換をうけた。

一方前述の如く、小山田博見、川村武が遺失物通知書をもつて上京し、遺失物係へ行き遺失物をうけとる際、由松のことを遺失物係に伝えている。遺失物係は、これだけのことを言われれば当然警視庁へその旨連絡し、その身元調査の手続きをすべきであるのにこの連絡を全く怠つた。そのためこのときも、由松の身元は全く確認されなかつた。もし係員が由松の身元調査を本庁へ問い合わすなり、各警察署へ問い合わすことをしていたのであれば、由松の身元は直ちに判明した筈である。

(三) 東京都の損害賠償責任

1 東京都は警視庁を管轄下におくものである(警察法三六条)ところ、警視庁大井警察署員および警視庁遺失物係員には、前記の如き過失があるので、東京都は、これによつて発生した原告川村セノの損害を賠償すべき義務を負うものである。

2 又、港区は、特別区として行旅死亡人の取扱事務を行うものであるが(地方自治法二八一条二項一三号)、都は特別区に対し助言、勧告権を有し(同法二八二条五項)、かつ吏員、職員を配属できる(同法施行令二一〇条、二一〇条の二)。しかして、本件川村由松の遺体処理を担当した関係職員はすべて東京都採用の職員である。

従つて、後記(第四、二、港区の責任)記載の港区関係職員の本件遺体処理に伴う過失による原告川村セノの損害についても、東京都は賠償義務を免れえない。

二港区の責任

(一) 港区は、同区内で発生した行旅死亡人(行旅中死亡し、引取者なき者を行旅死亡人という―行旅病人及行旅死亡人取扱法一条一項)の身元を調査し遺族に速かに通知する義務を負つている。

行旅死亡人取扱法七条、九条、一〇条はいずれも右調査通知義務を明示もしくは黙示に前提としている。

即ち市町村長(東京都では特別区の長―行旅死亡人取扱法一九条)は行旅死亡人の「状況、相貌、遺留物件その他本人の認識に必要なる事項」を記載した後、同事項を公署の掲示場に告示し、且つ、官報もしくは新聞紙に公告しなければならない(同法七条、九条)のであり、これは最少限度の身元調査活動を明記したものである。

被告港区は「身元調査は警察の職責であり、地方公共団体には調査組織、能力が欠如しているから調査義務はない」旨主張するが、法律上、警察と並んで特別区にも独自の調査義務があることは明らかである。制度的に組織、能力に欠けているなら格別、現状において調査組織、能力に欠けていること、或は警察の方が調査組織、能力に勝つていることは、いずれも独自の身元調査義務の存在を否定する理由にはならない。

すなわち、行旅死亡人取扱法一〇条は、「行旅死亡人の住所若は居所及氏名知れたるときは、市町村長は速に相続人に通知し、相続人分明ならざるときは、扶養義務者は同居の親族に通知し、又は一三条にかかげたる公共団体に通知すべし」と規定しており、住所若は居所及氏名が判明したとしても相続人が誰であるかは各地方公共団体と連絡を密にして住民票、戸籍等の調査を経なければ不明であるのが常識であり、住民票、戸籍の管理・維持は地方公共団体がその任に当つているのであるから、最低限度住民票、戸籍などによる身元調査、そしてそれに基く相続人への通知義務を地方公共団体に課しているのである。

従つて、警視庁大井警察にその調査義務があるとしても、被告港区の責任に消長をきたさない。

(二) 以上の見地に立つて本件を具体的にみると以下のとおりである。

由松の場合はその遺留物件(本件小荷物切符・手荷物切符・納品書・財布、名前入紺色作業帽、印鑑)があり、且つ本人の生前の供述(明治三四年三月一〇日生、青森県出身、川村由松)によつて、被告港区は「行旅死亡人の住所若は居所及氏名(これは既に知れていた)」を調査できたはずである。

本件では氏名、生年月日、そして青森県在住とまで判明しており、且つ、青森県内の三本木と十和田の地名が出ていることから、容易に調査でき、しかも戸籍住民票の調査は市町村の独特かつ専門のはずである。すなわち、港区係員らは速かに納品書等を手懸りとして由松の住所若は居所を調査し、しかるうえ相続人である原告の発見に努め、原告に通知すべき義務があつた(行旅死亡人取扱法一〇条)のにこれを尽さなかつた。

(三) 仮りに、本件は被告港区として容易に身元を調査できず、従つて行旅死亡人取扱法九条に定める「死亡人の住所、居所若は氏名」知れざるときに該当するとしても、被告港区は同条に定める官報若は新聞紙における公示義務を尽さなかつた。

被告港区は予算の関係で従前は官報における公示しかした例はないとし、官報では遺族の発見に実効がなく由松の解剖と官報への公示義務違反が因果関係のない様な主張をしているが、本件では青森県しかも三本木、十和田との両地名がはつきりしているのであるから、青森県内の一般紙に公示すべきであつた。

由松は当時一万円余の所持金を有していたから、単に予算がないから一律に官報でしかやらないとの被告港区の扱は、適切を欠き、特に本件ではそのために由松は解剖されるに到つたのである。被告港区が地方自治の本旨に従い誠実に住民の為に行政をなしていたら原告に従述の如きとりかえしのつかない精神的損害を与えることもなかつたのである。

(四) 被告港区は便宜上死体をすべて慈恵医大に保管してもらい、死後三〇日を経過して身元引受人が現われない時は学生の教材として系統解剖に付されることを熟知していたものである。

更に関が納品書等を発見し、大井警察署に対し、身元確認の資料となるのではないかと念を押したから、被告港区としては何ら責任がないと抗弁するが、この事実は自ら身元確認の資料を保持しながら、その身元調査義務を尽さなかつたことを自白するものである。

三青森県の責任

(一) 家出人措置要綱

1 右によれば、家出人の手配を組織的かつ能率的に行うこと(同一一条)、このため要綱は防犯・鑑識専従者は勿論、広く部内に周知して願出人に不便をかけることのないようにすること、願出受理にあたつてはいたずらな形式論にこだわらず実情に即した取計らいをすることとされている。

また、捜索願を受理したときは、家出人手配簿を作る必要がある。捜索願は口頭、文書のいかんに拘わらずこれを受理しなければならない。手配簿には公開、非公開の別、立廻り先(事情をできるだけくわしく聞き、できるだけ立廻り先を限定する必要がある。)等を記入する。

2 捜索願を受理した場合において必要があると認めたときは、「立廻り先」「観光地」「一般」のどれかの手配をする。そして、普通の場合には「必要がある」との要件は満たされるものと考えられている。何の手配もしないのは例外的措置ということである。他府県に対する「一般手配」は双方の県警本部を通じて行ない、一応の目安を得た段階で該当署長に手配し(同六条)、署長はこれに即応し必要な措置をとる(同十条3項)。

3 手配後又は家出後二五日を過ぎても発見せず、又は帰宅しない者は「家出人票」を作成し立廻り先などを記入する。手配の有無に拘らず当然に作成するのである。「家出人票」は「身元不明死体票」や「指紋による身元照会」など家出人が死亡し遺体となつて発見される場合に備えたものである。

4 なお措置要綱等で以上の措置がとられるのは家出人(「本人の意思によつて居所又は住所を離れたと認められる者」)、および「本人の意思によらないで居所又は住所を離れたと認められる者」(同二四条)である。

出稼ぎ先から行方がわからなくなつた者(いわゆる「出稼ぎ不明」)、「蒸発者」のように家出したのかしないのか、動機、原因も解らないが行方が知れなくなつた者は、そのいづれでもある可能性があり、反面それ以外の可能性はない。このような者も広く家出人として前記1ないし3の措置をとるというのが二条、二四条の趣旨である。

なお、いわゆる「出稼ぎ不明者」や「蒸発者」は実質的に「自殺又は犯罪する虞れのない家出人」以上に捜索する必要があることからみても、措置要綱による取扱いを受けるべき者と言える。けだし家に居るのがいやになつて出ていつた者は前者よりも「どこかで無事に暮している」ことが圧倒的に多いのが常識だからである。

(二) 「家出人措置要綱」運用の実態

(一)で述べた措置要綱の基準は、憲法一三条、警察法一・二条、三六条の法意からみて必ずしも充分ではない。

しかるに、昭和三二年三月一二日制定の数カ月後には行政の能率化のために運用を変化させた。A市にいるらしいだけでは立廻り手配はしない、一般手配は原則としてやらず、公衆処遇上必要であり(犯罪、自殺の虞れなど)公開によるときなどの場合例外的に行う、その場合でも関東、関西、東京方面のように漠然としたものではなく具体的に府県名を特定できる程度であり、受手配先本部長はそれを一応公開するにとどめ、手懸りを得る目安がついた時初めて必要と認められる警察署長に対して手配すれば足りること、従つてあてもないのに一斉手配はしないこと、再手配も現実に具体的な活動を行つている場合に限り、濫用はしないこと、などである。

結局よつぽどのことでないと手配しないし、手配してもまともに探さないということである。家出人が増加しているせいもあろうが、その対応策はもつぱら行政の便宜のみである。

(三) 被告青森県の対応策

1 「家出人捜索における一般手配運用の適正化について」によれば、一般手配は必要性、発見可能性を慎重検討のうえ適当と認めたときに限つて行うこと、その場合でも立廻り先を限定して行うこと、公開を希望するよう願出人を説得することなどを指示した。

また、「家出人捜索願受理の一般手配報告」によれば、「一般手配」は要綱によればその他の場合に原則として行うことになつているが、原則としては手配せず、前記(二)のような場合にのみ手配を行なうこと、書式分類上「一般手配」となつているもののうち、現実には手配せず、受理警察署に保留するものについては、家出人報告だけはしなさいとの指示をしたのである。

2 被告国の出稼ぎ「無策」の実態からみて、出稼ぎ者の実情を無視してもつぱら行政の便宜のみを考えた警察庁の責任、ひいては国家公安委員会を通じてこれを統轄する被告国の責任は重大であり、警察庁の指示をうのみにした被告青森県の責任は言うまでもない。青森県における出稼ぎの激増に注意を払うならば、少くとも出稼ぎ不明者は措置要綱どおり運用すべきであり、実情を無視した通達は警察法の定めるところに従い断固はねのけるべきだつたのである。

3 百歩譲つて仮りに通達どおり行うことがやむを得ないとしても、本件での青森県各警察官の行為を見れば通達の誤り、それへの盲従の誤りが拡大再生産されたとしか言いようがない。

(四) 本件捜索願に対する措置の不当性

1 出町善次郎の誤り

(1) 前記願出の内容からすれば、直ちに家出人として捜索願を受理すべきが当然であつた。出町らが行つた調査と捜索願を受理することとは何ら矛盾しない。

セノらの昭和四一年一〇月末頃の訴えを全く聞き入れなかつた。訴えの内容は修正された公式的指導基準によつてさえ、由松が切迫事情にある要保護者であること(老令、右腕不自由、体力消耗による解雇、大事なボストンを遺失したままの音信不通、由松の筆まめ、一度鶴見方面での働いてから帰省するとしても落着くべきところに居ないことの結果判明、セノら親族の一通りでない不安)、立廻り先の限定可能性(鶴見もしくはその周辺)のいずれも充している。それなのに手配はおろか家出人でもないとした。

(2) 昭和四二年一月二八日付の受理手続において立廻り先の特定、要保護者ととらえるべきことのいずれについても不適切な判断をし、そのため現実に手配の途を閉してしまつた。

(3) それ以降も何の措置もとらなかつた。昭和四二年三月末の槙へのひきつぎの時点においては、もはや家出人でないとする何の理由もなくなつていた(正月も過ぎ、六カ月も経過した。)に拘らず、かえつて槙に対し、家出人票作成の必要がない旨強調してひきついだ点は、槙が鑑識の者で、家出人票を作る以外の家出人捜索事務に関心がない者だつただけにその誤りは大きい。

2 槙和男の誤り

出町のひきつぎをうのみにして家出人票の作成を甚しく遅らせたばかりか、由松を家出人でないと判断し、手配のことを考えようともしなかつた。

(五) 警視庁からの問合せに対する青森県警の過失

姥名は警視庁からの照会が、いわゆる「氏名照会」か否かに全く注意を払わなかつた。もしこのことに注意しており、氏名照会でないと考えれば、死者として照会された由松が生きていたということであるから、当然、警視庁へ折り返し問合せをすることになつていたであろう。ところが姥名には、死亡者が照会の人物と同一であるか否かだけしか関心がなかつたのであり、警視庁が何故このような依頼をするのか、氏名照会か否か、何から死体の身元を割り出したのか、何故家族、知人のことを調査するのかは全く関心がなかつた。

だからこそ、調査結果に何の疑問も持たず、問合せの必要を感じなかつたのである。

四国の責任(関係警察官の過失に基く責任)

前記各警察官等の行為による損害は、被告国もその賠償責任を負うものである。

いわゆる行政法学上行政作用としての警察権が、国民の生活、権利を守るために存在し、これが国家の一般統治権に由来するものであることは講学上争いがない。

そして又、いわゆる家出人の捜索並びに身元不明死体の身元調査などが、右警察権の(内容)に入ることも疑いないところである(警察法二条一項)。

しかしながら、警察権が国の統治権に由来するとはいつても、その行使の責任をどこが負うかは実定法によつて決るであろうから、次にこの点を論じなければならない。

しかるとき、警察法三六条は、地方自治尊重の趣旨から、各都道府県警察を設置することとしており、この点から右警察権は、国から各地方公共団体に対して団体委任されていると解する学説、判例が存在する。

しかしこれは、本来警察権を一般的に地方自治体に団体委任すべきであるとの理念の問題と、国が中央集権的に警察権を保有している現実とを混同するものであつて誤りというべきである。

もし、団体委任が行われているとするならば、委任者たる国は警察権の行使について指揮監督権を保有せず、都道府県知事の所轄下にあつて都道府県警察の管理者たる都道府県公安委員会に、右指揮監督権を含む実質的管理権が与えられてしかるべきであるが、地方自治法によれば、都道府県公安委員会には何らそのような権能は与えられていないのであり(同法一八〇条の九、同法別表第三、四)、逆に警察法によつて、国の機関たる警察庁長官に各都道府県警察の指揮監督権が与えられているのである(同法一六条)。

事実、家出人捜索の場合についても、家出人措置要綱、及びこれに関連する通達等は、すべて警察庁から発せられており、都道府県公安委員会からは、何らの指示も与えられていないのである。

以上によつて明らかなとおり、立法論としてともかく、現実において我が国においては、警察権が国から地方公共団体に対し団体委任されていると見るべきでなく、国から各都道府県警察に対し機関委任されていると解すべきである。

仮りに、警察権全体として機関委任されているとはいえないにしても、家出人捜索、身元不明死体の身元調査について限れば、本来右各調査が広域的であることを要求され、個別都道府県警察のみの調査では不適切であり、現に、家出人票、身元不明死体票等はすべて警察庁に保管され、照会されている状況であることを見ても、少くとも右調査等の事務については国が所管しており、各都道府県警察に対しては、これが機関委任されているものと解すべきである。

こうして、国は警察権、少くとも家出人捜索等に関する警察権はいぜんとしてこれを保有し、各都道府県警察に対し機関委任しているにすぎないものであるから、その行使は、具体的に公権力を行使した公務員が都道府県警察の公務員であつたとしても、なお「国の公権力の行使」たることを妨げないものと解すべく、その行使によつて生じた、原告の、夫由松を解剖されたことに関する精神的損害は、被告国も又賠償する義務を負わざるをえない。

もつとも、このことは右警察権の行使が都道府県の公務員たる警察職員の違法な公権力の行使について都道府県の責任を否定するものではなく、被害者は、国と地方公共団体の双方に対し、その損害の賠償を請求しうることはもちろんである。

第三原告の被つた損害・因果関係

原告は、以上に明らかにした被告らの重畳的かつ競合的な不法行為によつて、いかなる方途をもつても到底償うことのできない精神的打撃を受けた。

原告は、病身の老躯にはおよそ耐え得ないと思われる悲しみと苦痛を、被告らに対する満身の怒りと責任追及の姿勢にかえ、ここにその精神的苦痛に対する最低限度の補償を要求するものである。

原告の被つた全損害をあますことなく明らかにすることは至難に近いが、ここでは、その損害を明解にするうえで特に論及を要する数点について記すことにする。

一原告と由松の家庭生活の破壊

(一) 原告は大正一一年(一九二二年)満洲に渡り、大石橋満鉄病院の看護婦として勤務していたが、その翌年二二歳のとき、知りあつた由松と結婚した。当時由松は満洲鉄道株式会社で土木水道関係を担当する土木士長の職にあつた。

原告らの家庭生活は、二人の使用人をもつ比較的裕福な生活であり、この状態は、戦争の激化するまで、ともかくも平穏裡に維持された。

(二) その間、前線地帯である原告ら居住方面では次第に戦雲が急を告げる状態になつていつた。

原告自身も、当初は愛国婦人会にその後は国防婦人会において、銃後を守る婦人部隊として中心的な役割をにない、更に、すすんで満洲国兵事部の活動にも参加した。

他方、由松は、昭和九年頃、在郷軍人補充要員として服務中に、匪賊の襲撃を受けて右腕に貫通銃創を受けた。そのため由松は、当初右腕が曲つたまま伸びない状態になり、治療と訓練によつて右症状はとれたものの、重い物をもつことができず、細かな手先の仕事もできないため、普通の字を書くことができないなどの後遺症を残した。

(三) 昭和二〇年八月、日本の敗戦で戦争は終り、数百万の同胞が外地から引揚げてきた。原告ら夫婦は、その群にまじり昭和二一年九月、正に着のみ着のままで帰国し、由松の故郷青森県の三本木町(現十和田市)に居を定めた。

原告らのすまいは、旧陸軍軍馬用廐舎を改造修繕した建物に、多数の引揚者と共に集団入居したものであつた。引揚後、由松は、右腕の不自由のために通常の仕事につけなかつたので、ララ物資配給品の行商をし、原告は裁縫の内職をするほか親戚から現物の支援を得ることにより、からくも二人の生活は支えられた。

しかし、行商は、衣料品が次第に出まわる中で数年のうちに思わしくなくなつたため、由松はこれをやめて、不自由な体をおして米軍三沢基地に勤務し荷役作業に従事したが、これも間もなく体調を崩して退職を余儀なくされた。

当時、原告もまた、三沢市内で騰写印刷の仕事で多少の収入を得ていたので、夫婦の生活は最低限度は維持されていたが、それも、原告の心臓病の持病が出たため、長くは続かなかつたため経済的に余裕がある程にはならなかつた。

(四) その後昭和二六年頃、原告は、親戚のひとりである川村末吉の世話により、焼鳥と中華そばの店を出すことにし、「大陸」の屋号で約二坪程の店を持つに至つた。この店は引揚者らの宣伝も幸いして順調に発展し、原告は療養中の由松の稼働を期待するまでもなく自分の力で、経済的に安定した状態を維持できるようになつた。

原告は、二年後には、屋号を「大陸食堂」にあらため店を広くし、店員を五、六人使用する程になり、昭和二八年頃から暫くの間は、その経営が最も安定した時期となつた。

しかし、昭和三〇年頃、原告らが、右店舗から移転を余儀なくされ、規模も縮少し約五坪強の新店舗に移つてからは、原告自身の体の不調や店員の減少等が理由となつて、店の営業成績は次第に低下するに至つた。

しかし、原告は、その間一貫して病身の夫由松の療養生活を助け、二人の家庭の生計は専ら原告の経営する食堂の収益のみで保たれていたのであつた。

(五) 「大陸食堂」は、その後も、正に細々と続けられたが原告自身、体が弱まり、店舗を一時休業状態にせざるを得ないことが間々あるようになつたが、唯一の生計の途を閉された原告らの生計は次第に困窮の度を深めていつた。

その中で、由松は既に齢六〇歳をこえ、病身をいたわりつつ、盆栽などで自らを慰めて日を過していたのであるが、食堂経営の片手間での養豚業の不振、税金の重圧のなかで、ついに、老令病身の由松自身が働かないでは、二人の家庭生活すら維持していけないところまで追いこまれていつたため、由松は、昭和三八年より、生活費を得るために、近隣の人々とともに出稼ぎに出ざるを得なくなつた。

由松は、その年令と身体障害と病身とから、もし、十和田において職を求めたならば、いかなる職業にもおそらく就けなかつたであろうところ、いわゆる縁故出稼ぎによつて、職安の窓口を通さずに北海道、京浜方面に傭われていつたものであつた。

この出稼ぎ行以来、原告の家庭では、毎年夏から年末までの半年は、由松が、老病妻を一人故郷においたまま出稼ぎ行をすることにより、夫婦が別れて過すという異常な事態が始まつた。

(六) 由松は昭和三八年以来数回出かせぎに出たが、年とともに弱つてゆく体をみ、原告は昭和四一年には、何としてもその出稼ぎ行をやめさせようと決意し、前述したとおり、生活保護の手続を採るべく力を尽したが、それも断わられ一旦は出発をとめた由松の出稼ぎ行であつたが結局これを断念させることができなかつたのであつた。

そして、その出稼ぎ行が、由松の最期の出稼ぎとなつたのである。

二被侵害利益(解剖による精神的損害)

被告らに対する原告の請求は、いうまでもなく被告らの作為もしくは不作為によつて原告の蒙つた精神的痛苦に対する慰藉料であり、その請求の法的根拠としての侵害の対象もしくは被侵害利益の一つは、由松の遺体について喪主たるべき原告のもつ社会生活上の地位(利益)である。

昭和四一年一〇月九日由松死去と同時に由松の遺体は相続によつて相続人たる(本件においては喪主たるべき)原告に帰属していることはいうまでもない。しかし、その所有権は社会の道徳、風俗、慣習等(公序良俗)にしたがい、遺体を丁寧かつ厳粛に埋葬し祭祀供養することのできる権利もしくは地位というべきものであり、その性質上、軽々しく放棄することすら許されない重要な内容をもつものである。したがつて遺体の処理については、単に埋葬する場合においても遺体の相続人もしくは喪主たるべき者の意志(もとより公序良俗にかなつた意志)が極力尊重されなければならず、況んや遺体を学術研究用材料として解剖に付するが如き場合においては相続人もしくは喪主たるべき者が判明するかぎりその意志が尊重されるべきはいうまでもなく、その承諾なきかぎり何人も正当な理由なく遺体について、解剖に付するが如き処置を取ることはできない(死体解剖保存法、死体取扱規則等参照)

かように遺体についての相続人もしくは喪主たるべき者の権利が尊重されなければならないからこそ、「被告らの責任」において明らかにしたとおり身元の判明しない遺体について身元を明らかにするための調査義務が各種法規において厳重に定められているのである。すなわち被告らに課せられた、これら各種の調査義務は単に犯罪の被害者を確定するためにあるというよりもむしろ、遺体についての相続人もしくは喪主たるべき者を探し出し、相続人もしくは喪主たるべき者が遺体を適宜に丁寧かつ厳粛に埋葬し祭祀供養できることを保障するためにあるといわなければならない。

すでに明らかにしたとおり、由松の遺体については、その身元を判明できる充分な資料が存在したにもかかわらず被告らが調査義務を怠つたがゆえに、由松の遺体について相続人であり喪主たるべき原告において適宜に、丁寧かつ厳粛に埋葬祭祀供養することができなかつたものであり、あまつさえ、被告らが調査義務を怠つたがために、原告は承諾の機会すら与えられずに由松の遺体は学術研究用材料として原形を失うまで解剖されてしまつたのである。

原告に対する被告らの前記侵害行為によつて、原告は老躯にむち打つ探索行動、解剖による衝撃等によつて身心ともに疲れ果ててしまつた。その精神的苦痛は金銭によつては到底報いることはできないのであるが、金銭をもつてしか補填できないとすればその金額は本件請求額をはるかに越えるものといわなければならない。

第四結語

よつて原告は被告東京都・同港区・同青森県に対して各自一〇〇万円、被告国に対しては一〇〇万円のうち五〇万円および被告東京都においては前記不法行為が行われた日以降である昭和四四年七月一八日から、被告港区・同国においては同じく同年七月一九日から、被告青森県においては同じく同年七月二二日から各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

その二……由松の出稼ぎそのものを原因とする被告国に対する損害賠償請求

第一出稼ぎの実態

一本件訴訟の本質

由松の悲劇の本質は、同人が年老いた、しかも右腕が不自由な体であるにも拘らず、出稼ぎに出ざるをえなかつたという点にある。

そしてまえ、由松がそのように出稼ぎに出なければならなかつた真の原因が、「出稼ぎ」を放置しているばかりか逆に必然的に増加させようとしている国の農業政策にあり、その責任こそが追及されねばならない。

二「出稼ぎ」は放置することを許されない悲劇である

(一) 出稼ぎの実態を直視すれば、出稼ぎによつて郷里に残される留守家族の生活を苦労を一つとつて見ただけでも、健全な家庭生活を社会の基本とする近代国家が、これを放置することは許されないことは明らかである。

例えば、出稼ぎ者の大部分は、いうまでもなく、男性それも一家の主柱たる主人である。

被告国の統計資料(農家就業動向調査)によれば、昭和四二年度においては、出稼ぎ者の五五%が世帯主であり、長男が三九%、つまりこの両者で全体の九四%を占めていること、さらに年令の点を見ても、三九才から五九才が半数以上の五三%にのぼつていることが明らかにされている。

出稼ぎの期間にしても、被告青森県の実態調査によれば、昭和四一年度において、出稼ぎ者の四四%が六カ月以上、五三%が三カ月から六カ月も出稼ぎしているとのことであり、三カ月未満の短期出稼ぎはわずか三%余りしかいないのである。

このように一家の主柱たる世帯主や、あととりたる長男が、一年の半分近くも郷里を離れ、妻や子のみが残されて、その帰りを待たねばならないという生活は、一体正常な家庭生活といえるであろうか。

(二) まず第一に、夫が出稼ぎ中の日常作業は当然のことながら、すべて妻の負担となつてくる。

農家であれば、秋の取り入れのあとかたづけ、冬ごもりの準備、冬場のマキ、カヤおり、野菜貯蔵など、さらに積雪地帯であれば、雪下しも必要である。それらのいずれもが、女性にはつらい重労働であるが、夫の出稼ぎによつて妻の仕事とならざるをえないのである。家族の出稼ぎの留守を守る老女が、屋根の雪下しが出来ないのを苦にして自殺した例さえあるのである。

もちろん留守家族にかかる負担は肉体的なものだけでなく、それ以上に精神的な苦痛は大であろう。

夫から月に一回位、たよりがあるとはいつても、出稼ぎ先でどんな生活を送つていることやら、健康だろうかとか、浮気しないかとか、その心配の種はつきない。夫の家族、とくに姑との関係も複雑である。このため、妻が家出したり、離婚したり、さらには、ノイローゼで自殺するなどという本当の家庭の崩壊という事実すら多数発生してきている。

(三) さらに、出稼ぎが子供に与える影響は、より重大である。

子供にとつて柱ともいうべき父親が一年の半分も家庭におらず、しかも残された母親が心配事などでいらいらしているという状態で、満足な教育やしつけを受けられるはずもなく、学業成績や非行に必然的に結びつかざるをえない。

父親の出稼ぎ中、母親が働きに出るようになることも多く、その結果、子供たちは当然、両親のもとを離れて養護施設などで育てられるという出稼ぎ孤児のケースも増えてきた。そしてよりひどい場合には、母親が野良仕事に行つている間に、子供が焼け死んだり、餓死したりするという信じられない出来事が、次々と新聞などで報道されているという状態に事態は悪化してきている。

(四) もちろん、出稼ぎによる悪影響は一人、残された家族にとどまるものではない。

地域社会そのものも大きな打撃を受けることになる。

まず、地域農業が、その後継者を失つて荒廃してゆく、さらに、出稼ぎとそれに引き続く人口の流出に伴つて、地域社会そのものが崩れていかざるをえない。消防団などが編成できなくなつて、やむをえず婦人消防団が結成されるという事態すら生れる。

さらには、地方自治の根幹である村長などの役員すらおぼつかなくなつてきているのである。こうして、出稼ぎ地帯は、過疎地帯へ、地域社会の崩壊へと結びつかざるをえない。

(五) 最後に、出稼ぎは、出稼ぎ者自身に最大の被害をもたらす。

留守家族が何よりも強く願つているのは、いうまでもなく出稼ぎに出た夫や息子の安全と健康である。

しかし、その願いにも拘らず、出稼ぎ者の犠牲が連日のように報道されない日はないというのが実情である。

これは何も偶然のことではない。出稼ぎ農民は特別の技能をもつて都会へ出ていくことはまず考えられないから、その職場は、必然的に、肉体労働、それも重労働の場所に集中してこざるをえない。全出稼ぎ者の六割程度が土木建築業に従事しているという理由がそこにある。しかも、その土建業も、就労経路の点から見て、大企業に直接雇用されることは余りなく、その大部分が、中小最末端の下請に雇われているのが現状である。

一方、建設業は、産業死亡事故の約半数を常に占めている業種であり、そのようなところに、経験年数の少い、出稼者が配置されれば、犠牲者が続出することは火を見るより明らかである。

大阪の万国博が実質的に出稼ぎ労働者の手によつて完成されたことは周知の事実であるがその中で、七〇人以上にものぼる犠牲者が生れていることは余り知られていない。今日の都市改造の成果は、多数の出稼ぎ労働者の犠牲の上に成り立つている。もちろん死亡にまで至らない単なる傷害程度ならば、数えることも出来ないほど多数にのぼつているはずである。しかも重大なことは、出稼ぎ者の災害がどの位にのぼつているかの統計調査すらなされていないことである。

(六) 幸いに出稼ぎ者が事故にあわなかつたとしても、劣悪な労働条件のもとで働かされる出稼ぎ者の身体に影響がないはずはない。

まず、職種が前記のように重筋労働が主である上、作業時間も長い。これは、出稼ぎ者を雇用しようとする企業の意識が、安い労働力の確保にある以上、賃金が低く押えられるのが当然のため、その賃金で、出稼ぎの目的である郷里への送金をしようと思えば、いきおい長時間作業によつて、時間外賃金を得るよりしかたないからである。

しかも、そのような重筋長時間労働を可能にするような宿舎、作業環境などの条件は、全く与えられてはいない。

寝ることが唯一の楽しみという出稼ぎ者に対して、八畳に九人とか、一〇畳に一一人と押し込んで、さらに食事に至つては、米だけで量とカロリーを満足させるという状態で、もちろん栄養士などは入つていない。

しかしながら、労働条件や、待遇に不満だからといつて、都会に不慣れな出稼ぎ者は、おいそれと転職先を見つけるわけにもいかず、いわゆるタコ部屋に詰め込まれたままという状況にならざるをえないのである。

(七) こんな出稼ぎ先の状況では、いかに頑健な農家の人とはいつても、健康を保てるはずはないであろう。ところが、出稼ぎ先では、健康診断すら受けられることはほとんどない。そのため、自分が病気になつているのも知らずに、郷里に帰つて寝込むというケースが、毎年多数にのぼつている状況である。

さらに問題なのは、このような出稼ぎ者に対して、社会保険等による保障が非常に少いことである。

前述した死亡事故などでは、もちろん、遺族に対しては涙金しか渡されない。大阪の万博工事の犠牲者の如く成功の影の功労者として遺族が顕彰碑にお礼を述べさせられるに至つては何をかいわんやであろう。

もちろん、健康保険や失業保険の加入率も低いし、労災保険にしても、昭和四二年に改正されて強制加入がほぼ全面的に適用される以前の加入率は極めて低かつたし、仮りに加入していても労災事故を労災事故として扱わず健康保険で治療させるなどということが平然としていまでもまかり通つているのが実状なのである。

出稼ぎ者の生命や健康がいかに低く扱われているかが明らかであろう。

(八) 以上概略明らかにされたとおり、出稼ぎは、まず郷里に残された留守家族から平穏で健全な家庭を奪い去るし、郷里の地域社会そのものの根底を揺り動かさざるをえないし、さらに、出稼ぎ労働者自身の、生命と健康を犠牲にさせるという必然性をもつているのである。

第二原告の被つた損害

以上から明らかなとおり、出稼ぎに出るという一事をもつて、その家族に多大の精神的損害を与えるものというべきである。原告の場合も、昭和三八年、夫由松がはじめて出稼ぎに出て以来、毎年、五、六月から年末まで失業保険受給資格を得られる最低六カ月間以上を、別れ別れに過さなければならず、しかも、由松を六〇才以上という老令であり、右手も不自由という状態のもとでなおかつ、わずか二人きりの生活も維持することが出来ずに出稼ぎに出さなければならなかつたということは、原告にとつて大変な精神的苦痛であつた。

さらに、出稼ぎ先の状況が、前述したような劣悪な労働環境にある以上、由松の如き老令かつ身体に障害のある者が出稼ぎに出た場合は、災害にあつたり、病気する危険性は極めて高いものというべきである。

従つて、由松の死亡は当然に同人が出稼ぎに出たことに起因するものと解すべきである。

第三被告国の責任

一序論

被告国は、すべて国民を個人として尊重し、その生命、自由及び幸福追求に対する権利は、立法その他国政の上で最大の尊重をはらう義務を負い(憲法一三条)、又すべての国民を法の下に平等に扱い、社会的身分により、政治的経済的又は社会的関係において差別してはならない義務を負う(憲法一四条一項)。

さらにすべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有し、国はその権利の実現をはかる義務を負いすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努める義務を負う(憲法二五条)。

そして、公務員は、以上の憲法上の規定を尊重し擁護する義務を負い(憲法九九条)、国民の奉仕者として、その国民の権利の具体的実現を図る義務を負う(憲法一五条)。

しかるに、被告国は、前記の如く、具体的被害が多数の国民に現実に発生しており、前記義務によれば直ちにこれに対する対策、すなわち、農山漁村地帯における出稼ぎ対策を立案、実施すべきものであるにも拘らず、所管責任者たる歴代農林大臣は、これを怠り、前記の如き被害を存続放置せしめたばかりか、これを引き続き増大せしめるに至つている。

この結果、前記した青森県十和田市社会福祉事務所社会福祉主事による本件川村由松からの生活保護受給申請の却下処分とあいまつて、川村由松をして、本件死亡に至る最後の出稼ぎに出ざるをえなくさせた。

一方、出稼ぎの実態が前記のとおりであり、そのような状況の中へ、老令で、しかも右手も不自由な由松が出稼ぎに出るということは、出稼ぎ先で、同人が災害にあつたり発病する危険性がきわめて高いことはもちろんであり、従つて、同人の死亡も、当然に、同人が出稼ぎに出たことに起因するものと解すべきである。

従つて、右の結果をもたらしたものは、前述の如く、由松の生活保護申請の却下と共に、被告国の農業政策にあることは明らかであり、これは、前記各農林大臣を責任者とする公務員の国の公権力の行使によるものであるから被告国は、国家賠償法一条一項によつて、原告の損害を賠償する責任を負わねばならない。

二本件生活保護申請拒否処分の違法性

昭和四一年五月由松の生活保護の申請とそれが拒否された事情は前述したとおりであるが、それは違法な処分であり、その責任は被告国にある。

(一) 川村由松は「要保護者」であつた。前述のように由松の最後の出稼ぎとなつた昭和四一年五月頃、由松夫妻は困窮により最低限度の生活(生活保護法第一条)を自ら営むことができなくなつていたのである。

従つて、同人らより生活保護の申請を受けた十和田市の福祉事務所としては、由松に生活保護を与える、しかるべき手続を採らねばならなかつたのである。ところが同年五月中旬頃、原告方にやつてきた、右福祉事務所員浜中はセノが「大陸食堂」の店を経営していること、そこに電話があることを理由として、生活保護は与えられないと告げたのである。

(二) 世帯単位の原則とセノの食堂経営

本件申請却下の理由である大陸食堂及び電話の存在は世帯保護の原則(同法一〇条)によつても理由にならない。なぜならば、大陸食堂は、食堂といつても僅か間口一間、面積二坪の、しかももはやそれ自体として売却価値の殆んどない老朽建物にすぎなかつた。電話は食堂経営に必要不可欠の備品であることは言うまでもない。

従つて、資産の活用上、売却・原則によるよりも、「当該資産が現実に最低限度の生治維持のために活用されており、かつ処分するよりも保有している方が生活維持及び自立の助長に実効があがつているもの」に関する次官通達(生活保護手帳九九頁参照)に定める要件に疑いもなく、該当していたからである。

店舗については、これを廃止しても居住部分が四畳半一間しかなかつた由松夫妻の居住用として当然必要でありかつ保護基準に合致するものであつて、処分してもしなくても同じことである。勿論、処分しなくても事業の用に供される家屋の認容基準に適合するものであつた。電話の保有は事業用品、生活用品の一般的基準上、同様に何の問題もないはずなのである。

以上は全て世帯単位の原則を前提として述べたのである。しかしながら右原則は要保護者の自立の助長をも目的とする同法一条、保護の補足性をうたつた同法四条の趣旨からすれば極めて問題の多い規定なのである。

何故ならば、セノ自身も既に要保護の水準にあつたけれども、同人にはその利用しうる資産、能力を活用してなんとか自からも名実ともに要保護者にならないよう努力する義務を負つているのである(同法四条)。セノとしては、老齢でしかも女性でもあつたし、生活保護を受けた方がおそらく楽であつたろう。しかし同人はその強い意志によつて、せめて自分だけは何とかしようと考え敢えて申請を思いとどまつたのである。

このような場合、セノは営業を継続してなんとか自分の生活を維持する一方、自ら働く能力を失つた由松が生活保護を受けることがどうしていけないのであろうか。現に同法一〇条但書にも、「これによりがたいときには個人を単位として定めることができる」とある。この但書の精神からすれば、店舗、電話の存在はなんら障害にならなかつたはずである。

(三) 憲法二五条違反と本件拒否告知の違法性

仮に、行政上右のような法解釈が採られず、浜中が行なつたような指導を適法なものとするならば、それは健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が全ての国民に存在することを高らかに、そして厳にも宣言した憲法二五条に違反しているといわなければならない。

そればかりではない。浜中はその際、由松夫妻に対し「籍をぬいて、夫婦別れをしなければ、保護は与えられない」と告げているのである。由松夫妻は大正一二年に結婚して以来、約四五年の長きにわたつて、苦楽を、喜びを、悲しみをともにしてきた仲なのである。たとえ生きるためとはいえ、籍をぬき、別居することがどうしてできたであろうか。保護基準の違法性はもとより、生き別れを強いるような前記の処分は、弁解の余地のない違法なものである。

(四) 被告国の責任

直接の担当者であつた十和田福祉事務所員を責めるものではない。責任は、このような人々に無理な処分を強いた政府の違法な生活保護行政広くは社会福祉行政にあるのである。

憲法二五条から明らかなように、全ての国民が人たるに値いする生活を営む権利は、国家権力の積極的な関与によつて、その実現が保障されるべき権利である。

かくして、国民の最低生活の保障が当然に国の責務である以上、そのための行政事務は国家事務でなければならない。この生活保護法上、本件の保護行政の実施機関は地方公共団体である十和田市長である(同法一九条)。しかしながら、この場合の十和田市長は地方公共団体の執行機関としての地位ではなく、保護事務という国の委任事務を、国の機関として行う地位であることになんの疑いもない。

社会福祉事務所の社会福祉主事は、この十和田市長の補助機関にすぎない。そしてかかる地位にある十和田市長を被告国の厚生大臣は指揮監督する責任があるのである(同法二〇条)。「指揮」とは積極的に職務の執行につき、命令又は指示することであり、「監督」とは消極的に義務の違反なきことを期することは言うまでもない。

その方法は国家行政組織法一五条一項及び地方自治法一四六条各号、一五〇条又は一五一条一項の各規定による。

以上述べたように、自活する途を失なつた由松に対し、生活保護を与えず、既に無理なことの明らかであつた出稼ぎに追いやつた被告国の前記のような社会福祉政策の貧困、とりわけ生活保護行政の貧弱な実態が、由松およびセノに対する違法行為でないとどうしていえようか。

三違法な農業政策と国の責任

(一) はじめに

出稼ぎの矛盾はすなわち日本の農業が現在直面している矛盾であり、この矛盾はたんに農民、農村にとつてのみ重要な問題なのではなく、日本国憲法のもとで生きる日本国民全体の日常の生活にかかわりをもつ重大問題である。

この「矛盾」は、根本的には、わが国政府が、戦後一貫して国民の生活と権利を、一部の独占的大企業や外国の利益のために犠牲としてきたことに深く関連し、なかんずく、昭和三〇年代後半をもつて始まつた農業基本法の制定、農業構造改善事業の推進、高度経済成長政策のもとでの貿易自由化や地域開発の推進等々の一連の農業「近代化」政策によつて、わが国政府の、日本の農業と農産物を外国の農業と農産物の補完物としてしまうとともに、中下層農民を農村から締めだして都会へ追いやり、彼らを賃金労働者化しようとする政策を基本においていることに起因するものである。

(二) わが国の農業危機の本質

わが国の農業と農村の当面する危機的状況を把握するうえで、貿易自由化に伴う外国農産物や外国資本の大量侵入の実態を知ることは不可欠である。

昭和三六年の農業基本法や昭和三七年の農業構造改善事業などのいわゆる農業「近代化」路線は、そもそも、昭和三五年の日米安保条約締結と時期を同じくする貿易自由化方針の確立を機に、外国の農産物と資本の導入を目的として作られた路線である。

農林水産物は、昭和三五年四月当時約六〇%の自由化率であつたものが、翌年九月「貿易為替自由化促進計画」が定められて、昭和三八年九月には九二%以上にはね上つた。その結果、昭和三五年当時農産物輸入総額が八億ドル前後であつたものが、昭和四〇年には実に一九億四〇〇〇万ドルを記録し、他方でわが国の食料自給率は、当然低下の一途をたどり、昭和三五年の約八七%から昭和三九年の六九%へ急減した。

(三) アメリカからの農産物輸入

諸外国のなかで、わが国への農産物輸出国のうち、もつとも輸出量の多いのはいうまでもなくアメリカである。アメリカは、かねてより、わが国に対する余剰農産物輸出に異常な熱意を示していたが、ドル危機の深刻化という現状のなかで昭和四一年二月には、農業援助教書を発表して、従来の「余剰農産物売却」政策以上に強い姿勢を示す「食糧援助輸出」政策をとることを内外に明らかにし、わが国に対してもこれに基づく申し入れを行つた。そして、それとともにアメリカの対外援助活動を可能な限り他の「友好」国に肩がわりさせる方針を打ち出し、アジアにおいてはこの主たる責任を日本政府が負うこととなつた結果、わが国の東南アジアに対する資金援助、技術援助の効果(みかえり)として、これらの国々からわが国に対する農産物輸出がふえることは必至の情勢となつている。

農産物問題をめぐる諸矛盾のうち日本人の主食と深く関連する米と麦についてみると、外国小麦の輸入は昭和二五年の一六五万トンから昭和三五年二六三万トン(うちアメリカ九三万トン)、昭和四〇年三五五万トン(うちアメリカ一六〇万トン)と増加の一途をたどつている。また従来一〇〇%自給してきた大麦も昭和四〇年には四三万トンの輸入を記録している。その結果、わが国の小麦作は、昭和一五年の一七八万トンから昭和四〇年の一二九万トンへと後退し衰退のきざしを色濃くみせている。従つてこの政府取扱物資でない小麦の輸入、販売、食料加工等にかかわるわがくに内外の独占的業者の収益は莫大なものになる。

これに対して、「こめ」は、制度的にも実際上も、国民の監視を受け、生産者から消費者の手にわたる間に中間業者が不当な収益をあげることは、(特に最近の自主流通米制度の採用までは)原則的に不可能であつた。その「こめ」について、最近の傾向をみると、外米の輸入が昭和三五年までの一〇万トン台から昭和四〇年の一〇七万トンへ激増したのに反し、国内産米量は年ごとに減退する傾向がみられる。

そして、これに関連して稲の作付面積の減少と反当り収量の減退ないし停滞の傾向もみられる。

このように、日本人の主食である米麦だけについてみても日本国民の民族的利益を無視してまで、アメリカはじめ諸外国の農産物に依存して日本農業を圧迫しようとするのが現在のわが国政府の「政策」なのである。

(四) 地域開発による農村の破壊と労働力の収奪

日本の農業が危機的状況にある他の要因は、政府が狙う日本経済再編成の路線である。いわゆる「国土開発」「地域開発」政策は、重化学工業を中心とし、中小企業や農業を切りすてることにより「対外競争力」のある経済の体質「改善」をはかることをその基本的な目標とする。新産都市、高速道路、工業整備特別地域指定、首都圏整備、新幹線、国際空港、工場誘致、多目的ダム等々その事例は枚挙にいとまがない。

この政策の影響を正面から受けた農漁村は、耕地の激減、農耕地の荒廃、漁場の荒廃に直面し、電力、工業資本と地域農民の水利権等をめぐる抵抗等々の諸抗争が全国的に発生拡大するに至つている。

この経済再編成の嵐の中で、農業人口は、昭和三五年から四〇年までの間に農家人口は四四三万人もへり、農業従事者も二二二万人へり、およそ三五〇万人が非農林業部門へ、労働者としておくりこまれるなど年とともに確実に減少の一途をたどつている。

そして、これらの統計上明確になつている労働者のほかに、一〇〇万人をこえるといわれる出稼ぎ労働者がいるのである。

経済再編成の政治路線は農業政策としては、いわゆる農地と労働力の「流動化」政策としてあらわれ、この政策は、昭和三六年以降各種の法律制定について、さらに制度的にも確固とした路線を歩みはじめた。例えば、土地収用法の改悪、首都圏整備法、新産都市建設法の制定農民年金制度、離農年金制度構想などの離農促進対策などがそれである。

(五) 農業「近代化」政策の本質―農業基本法による農村破壊

外国農産物等の侵入と「地域開発」を農村の内部から補完するものとして、農業基本法が存在し、これを法律上の主たる根拠として農業構造改善事業がおし進められている。

この法律の基本的な狙いは、前に述べた政府の基本路線のうえに立つて、農民層の分解をおしすすめ、大多数の農民を農村から締めだし、一握りの富農による農業経営を発展させることにある。

そして、この政策の犠牲者として、農民は農村を離れさせられるが、さらに多くの農民は社会保障の貧困な工業労働者となることを避けて永久に農村を離れることもなく、出稼ぎ労働の形をとつて、大都会における労働者としての生活を余儀なくされるのである。

(六) 被告国の責任

以上述べたように、現在の日本農業の危機は、全国数百万世帯の中小農家をして、農業によつて生きてゆくことを遅かれ早かれ断念させる方向に強い圧力をかけることがその根本の原因である。

現に、全国各地のいかなる中小農家においても、すでに、農業所得のみでは、最低限度の生活を維持してゆくこともできない状態に立ち至つており、農外所得なしで家計を維持することは殆んど不可能といつてよい現状になつている。

農村に、あるいはトラクターが走り、あるいは消費物資が広く普及しているとはいつても、その実態は、必ず農外所得による家計補填があつてはじめて可能になつている。

われわれは、農民が農業に従事して憲法で認められた健康で文化的な最低限度の生活を営むことを妨害しているのは、あえて諸外国の利益のために日本国民の民族的利益を犠牲にした上、さらに大独占企業の利益のために大多数の日本国民の利益をも犠牲にするわが国政府の反国民的政策にあると考える。

従つて出稼ぎ労働者の輩出ならびにこれに伴う諸々の悲惨な現象を惹きおこした一切の責任は、憲法第二五条の規定に違反してあえて国民に負担と危険を強いる現在のわが国政府がこれを負わねばならない。

第四結語

よつて原告は被告国に対し五〇万円および前記不法行為が行われた日以降である昭和四四年七月一九日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。(請求原因に対する答弁)

その一

第一本件事実の経過

一由松の最後の出稼ぎから死亡まで

(一) 請求原因第一の一の(一)および(二)についての認否

(全被告、補助参加人に共通)

原告が由松の妻であることを認め、その余は不知。

(二) 同(三)についての認否

(被告国・東京都、補助参加人)

由松の病状の点を否認し、その余は認める。

(三) 同(四)についての認否

(被告国・東京都、補助参加人)

由松が大井消防署救急隊により民生病院に収容されたこと、同日午後三時原告主張の病名で死亡し、満六五歳であつたことを認める。

(四) 同(三)および(四)についての主張

(被告国・東京都)

1  大井消防署救急隊小隊長遠藤士長、訴外人同隊員宮田竹春(以下宮田消防士という)、同深川勝博消防士(以下深川消防士という)は、午前九時二三分ごろ、七六三局七四八六番の電話から東京消防庁警防部指令室に対してなされた救急要請の一一九番通報にもとづき、直ちに訴外人同署機関員橋本昭治消防士の運転する救急車で現場に赴き、同午前九時二五分ごろ現場である品川区東大井一丁目七番小松自動車株式会社前歩道に到着した。

2  現場には、由松が短かいほうきを持つてうずくまつており、その付近には数名の人が立ち止まつていたので、遠藤士長は、由松に向かつて住所、氏名、容態等を問いかけた。しかし、由松の言語が不明瞭で事情が分らなかつたので、付近にいた者、小松自動車株式会社の社員ならびに同社改築工事の作業員らについて、それぞれ由松の身元および発見通報時のことなどを調査した。しかし、これらの者は一様に、「現場付近では全く見かけない者である。また、どこから現場へきてうずくまつたのか分らない」と交々答えるので、遠藤士長は、川村由松をとりあえず京浜中央病院(品川区南大井一丁目一番一七号所在)へ収容することとして搬送救護した。

3  京浜中央病院では、訴外人高田貞夫医師が診察したが、その結果は「疲労が激しいだけで特に異常があるわけではない」とのことであつた。そして由松は、医師の診断を裏づけるようにしばらくすると自力で起き上がつて診察台に腰かけた。そこで、医師、看護にあたつた同病院の伊賀和子看護婦および深川消防士らが、住所、氏名等を尋ねたが、この問いに対して由松は、「青森県の川村由松六五歳」とのみ答え、その後は空腹を訴えるだけであつた。そこで伊賀看護婦が、牛乳一本、パン二個(五〇円)を与えたところ、由松はこれを食した後、「現場付近に知つている人がいるので帰る」と言いだした。この状況を見た遠藤士長は、高田医師の意見を聞いたうえ、知人宅まで救急車で送ることとし、由松を再び救急車に収容して現場へ戻つた。

4  そして現場では、遠藤士長、深川、宮田両消防士が、由松とともに下車してこれにつき添い、由松の指示するままに知人宅を尋ね歩いたが、そのうち、由松がよたよたした歩き方になつてきたので、遠藤士長は、知人宅を探し回るよりも病院に収容すべきであると考え、東京消防庁防災部管制室の指示を仰いだうえ午前一一時ごろ都立民生病院へ搬送した。

二遺体の身元調査と取扱い

(一)  請求原因第一の二の(一)ないし(三)についての被告国・東京都の認否

大井消防署員から由松死亡の通知を受けて、大井警察署巡査部長田中千一が鑑識係巡査部長渡辺金平を同行して民生病院に行き、同病院の死体安置所で由松の遺体の点検(田中部長は神田医師の意見と見分したところにより病死と判断した)、衣類の点検をなしたが衣類には白ワイシャツ(川村の洗濯ネーム入り)、岩崎組名入りの作業帽があつたこと、川村の認印一個が発見されたこと、田中らが民生病院から受けとつた所持品の中にビニール製財布(但し原告主張の本件財布ではない)、本件手荷物切符があつたこと、大井警察署岩男英明は警察庁に対して氏名照会をなしたこと、翌一〇日その回答があり、青森県三戸市川内村一三に存在する川村由松について青森県警に照会をなしたこと、ならびに同(二)の3・4、同(三)(但し日記帳が入つていたことを除いて)の各事実を認める。

(二)  同(一)ないし(三)についての被告国の主張

1  遠藤士長から、請求原因に対する答弁第一の一の(四)の諸事実の連絡を受けた田中部長は、由松が救護された現場が小松自動車株式会社のほかには自動車運転免許試験場、陸運事務所があるだけであることから、現場付近の再調査をしても救急隊の調査結果以上のことは期待できないと判断し、それよりは、日雇人夫の宿泊する付近の施設や岩崎組なる土建業者について調査する方が効果があるだろうと考え、自ら、宿泊施設浜川寮(品川区勝島一丁目九番所在)に電話して該当者の有無を調査し、また、訴外人同署捜査係巡査森隼男とともに手分けして、品川、大田両区内の岩崎組なる建設関係会社、工場に電話して該当者の有無を調査した。

2  なお、田中部長は、訴外人捜査係巡査岩男英明(以下岩男刑事という)に命じて警察庁鑑識課に対する川村由松、明治三四年生れの氏名照会(警察庁に保管されている指紋原紙の氏名と対照して同一氏名の者の身元を割り出す電話照会)をさせたが、その回答がくるまでの間に、病院から持ち帰つた所持金品を捜査係事務室の机上に再びひろげて岩男刑事とともに再点検し、病院に置いてきた死者の着衣についてのメモにその品名、数量、特徴などを書き加えた後、岩男刑事に命じて、メモと所持金品を訴外人防犯係巡査部長前田義男(以下前田部長という)に午後七時ごろ引き渡した。

前田部長は、直ちに防犯係事務室で前記メモと所持金品とを対照しながらこれを逐一点検し(財布については詳細に点検した。)、東京都港区長の大井警察署長に対する死体および所持金品引取書に所要事項を記載し(前田部長は所持金品引取書の所持金品目録の記載にあたつては財産的価値を有する物のみを記載し、手荷物切符甲片については価値なきものとして記載を省略した。)、大井警察署長の港区長に対する死体引渡書および死体に関する報告書を作成してから、パトカーに乗車して港区役所に行き、宿直員訴外人田中隆紀、同桑野信弘に書面および所持金品を引き渡した(死体および所持金品引取書は死体見分調書を追送した一〇月一二日に受領した。)。

3  そうこうしているうちに、警察庁鑑識課から氏名照会に対する回答があり、同姓同名者として、青森県三戸市川内村上市川三一、川村由松、明治三〇年生れおよび福岡県築上郡東吉富村狐島、川村由松、明治三五年生れの二名が抽出された旨の電話があつた。

そこで田中部長は、青森県の川村由松が該当者かも知れず、また該当者でないとしても、同人の知人で同人の氏名を潜称する者かも知れないと推量し、この旨を岩男刑事に伝え、青森県警察に対して、(1)在籍の有無、(2)転出の場合は転出先および家族関係、(3)家族知人で上京している場合はその者の住所、氏名、(4)その他川村由松の人相、特徴の各事項を照会するよう下命した。そして自らは、大井警察署長名による警視庁管内各警察署長宛の「行旅死亡人自称川村由松六五年の死体が発見されたから該当する者がある場合は通報されたい」旨の手配電報文(一〇月一〇日一号電)を作成し、これも青森県警察に対する照会とともに発信するようにと岩男刑事に依頼した。

岩男刑事は、一〇月一〇日午前八時三〇分ごろ、田中部長から下命されていた青森県警察に対する照会電報および同部長から依頼されていた警視庁管内の手配電報を発信した(青森県警察からは、一〇月一二日、照会の川村由松および明治四一年生れの川村由松の二名がいるが、いずれも県内に健在する旨の回答があつた。)。

4  また田中部長は、翌一〇月一〇日午前九時ごろ、岩男刑事に下命して、横浜駅小荷物係に電話をかけて本件手荷物切符に該当する手荷物について調査させた。しかし同係の回答は、「該当品は未着である。」とのことなので、田中部長はかくては手荷物の調査からの身元調査はできないと判断した(なお、横浜駅ではその後、この手荷物の引取り者がこないので、一〇月一二日、荷札記載の荷受人鶴見区鶴見汐見町東条初男方川村由松宛に郵便はがきを出したが、そのはがきが「あて所に尋ねあたらず」として返戻されたので、一〇月二七日ごろ包みを開いて内容を点検し、所有者の発見に努めた。しかしながら内容からも手荷物の所有者、荷受人がどこの者であるかを判断できなかつたので、後に公売処分をした。)。

5  死体の見分(戸籍法第九二条第一項所定の検視)

高橋警部補は、一〇月一〇日午前八時三〇分ごろ大井警察署に出勤し、田中部長から前夜来の身元調査の結果の報告を徴した後、東京都監察医務院へ電話連絡して監察医の死体検案の予定時刻が午前一一時ごろになるであろうことを聴き、ついで港区役所に電話してこの旨を告げ、検案および検視が終るころ死体および衣類を引き取りにきてもらいたい旨を連絡し、午前一一時ごろ渡辺部長、岩男刑事を帯同した民生病院へ赴いた。

高橋警部補らは、午前一一時三〇分ごろ民生病院に着き、受付(事務室)で訴外人監察医井出一三(以下井出監察医という)を待ち合せ(このころ港区役所から奥野哲郎が来院した。)、午後〇時一五分ごろ井出監察医が来院すると直ちに死体安置所へ行き、検案ならびに検視に着手した。

そして渡辺部長は、井出監察医に協力して死体の着衣を脱し、死体見分者高橋警部補の指示にもとづき写真撮影(二葉)、ついで死者身元照会書の指紋印象欄に死者の指紋を採取した。

一方、岩男刑事は、死体見分ならびに渡辺部長の行なつた作業に協力していたが、高橋警部補が井出監察医の死体検案調書作成に立ち会つているころ、訴外人奥野哲郎を安置所へ呼び入れて(訴外人奥野哲郎は死体見分中には安置所の外にいた。)、死者の着していた衣類を引き渡し、死体は監察医が解剖のために監察医務院へ搬送することなつたのでこの場で港区へ引き渡せないから、後に同院と連絡のうえ引き渡しを受けてもらいたい旨を告げた(訴外人奥野哲郎は衣類のほかに監察医の作成した死体検案調書を持ち帰つた。)。

6  渡辺部長の行なつた身元照会

(1)  死者身元照会書

渡辺部長は、一〇月一一日、死者身元照会書を作成し、同日警視庁刑事部鑑識課を経て警察庁刑事局鑑識課へ送付した。警察庁刑事局鑑識課は、一〇月一二日これを受理し、同月一八日、訴外人同課員永田武信が同課に保管中の指紋資料と対照したが、該当原紙が発見できなかつたので、この旨を死者身元照会書に記載して警視庁刑事部鑑識課に送付した。警視庁刑事部鑑識課では、同月一九日、訴外人同課員長谷川恭一郎が同課保管中の指紋資料と対照したが、該当するものが発見できなかつたので、この旨を死者身元照会書に記載したうえ、これを大井警察署刑事課鑑識係宛に返送し、同係は一〇月二三日これを収受した。

(2)  身元不明死体票

渡辺部長は、死者身元照会書により照会してみたが依然として由松の身元が判明しなかつたので、田中部長と連統のうえ、身元不明死体票による調査を行なうこととし、翌一一月一八日、身元不明死体票を作成して警視庁刑事部鑑識課を経由して警察庁刑事局鑑識課に送付した(警視庁刑事部鑑識課では、一一月二一日これを受理し、同日警察庁刑事局鑑識課へ送付した。)。

警察庁刑事局鑑識課では、保管にかかる家出人票と対照したが該当するものがなかつたので身元不明死体票に貼布されている写真を身元不明死者便覧別冊写真集3に登載し、昭和四二年六月ごろ全国の警察署に配布手配した(原告が昭和四二年七月五日十和田警察署において閲覧したという写真集はこれである。)。

(三) 同(一)ないし(三)についての被告東京都の主張

1  大井署員が最初に由松の所持品を点検したのは、昭和四一年一〇月九日夕方都立民生病院事務室においてである。すなわち、同日大井消防署からの、都立民生病院に収容した行旅病人が死亡した旨の電話連絡に基づき、同署捜査係巡査部長田中千一および同署鑑識係巡査部長渡辺金平の両名は、同病院に赴き、事務室において、事務員が差し出した由松の入院状況調を閲覧するなどして、由松の本籍および住所が不明であること、死因は急性肺炎か脳溢血であることを知つたうえ、死体安置所へ行つて死体を見分し、さらに同所にあつた由松の着衣等を点検した。しかし、由松の着衣等からは、「川村」の認印一個が発見されたほかは、白ワイシャツに「カワムラ」の洗濯ネーム、作業帽に「岩崎組」の名があるだけで、他に身元確認調査の資料となり得るものはなかつた。

そこで、右両名は事務室に戻り、同病院の事務員から封筒に入つている由松の所持品を封筒からだして並べた。田中、渡辺両名は、各自個々の所持品を手にとり仔細に点検した結果、由松の所持品として現金一〇、二一九円、黒二つ折ビニール製財布一個、男物腕時計二個、本件手荷物切符甲片一枚があることを確認した。右点検をする前に右両名は、由松の本籍、住所が不明であることを知つていたので、由松の住所を確認するに足る資料の把握に重点をおいて調査したのであつて、とくに財布については各自慎重に点検した。その結果右財布は、札を入れる個所(千円札が入る程度の大きさ)と小銭を入れる個所との二個所から成つており、外側内側ともに黒色であるほか特徴がないことを確認したうえ、右財布の札入れおよび小銭入れの個所に指を入れて調査し、財布中には何も残つていないことを確認した。右両名は、各自由松の人相、身体的特徴、着衣、所持品につきメモをしたうえ、所持品のうち横浜駅留の手荷物切符についてはよく調べる必要があると話し合い、所持品を持つて帰署した。

2  二回目に大井署員が由松の所持品を点検したのは同日田中、渡辺両名が大井署に帰署した後捜査係事務室においてである。すなわち、田中および同署捜査係巡査岩男英明は、捜査係事務室の机上に由松の所持品を再び封筒から出して点検した。そして、田中が都立民生病院で記入してきたメモに基づき、港区へ所持品等を引き渡すのに必要な所持金品引取書を防犯係で作成する資料として、岩男が所持品等をわら半紙に書き出した。この際、田中、岩男両名は、財布および財布の中を再度点検したが、新たな資料を発見することはできなかつた。

3  三回目に大井署員が由松の所持品を点検したのは、同日岩男が右により作成したわら半紙のメモと所持品とを持参して防犯係事務室へ行つたときである。すなわち、防犯係巡査部長前田義男は、桜井防犯係長立会いの下に、岩男が持参したメモと所持品とを対照しながら逐一点検し、前田もその際財布の中を点検したところ、結果は前記点検と同様に何も在中していないことを確認した。右点検後、前田は岩男の持参した前記メモに基づき、所持金品引取書に所要事項を記載したが、所持品のうち手荷物切符甲片については財産的価値のないものと判断して記載しなかつた。

右書類を作成後前田は、由松の所持品および所持金品引取書等を持参して港区へ赴き、同区宿直職員に所持品を引き渡した。

4  昭和四一年一〇月九日田中の命によつて岩男が警察庁に対して氏名照会をしたところ、同姓同名者として青森県と福岡県に各一名存在する旨の回答があつた。

5  同日由松の所持していた帽子に「岩崎組」というネームの入つていたことを手がかりとして、田中は同署捜査係巡査森隼男に命じて電話帳から大田、品川両区内の岩崎と名のつく土建業を中心としてピックアップさせ、田中、森両名で手分けして電話照会したが判明するに至らなかつた。

6  同日岩男は、由松の所持していた時計を手がかりとして警視庁に対して賍品照会をしたが、該当なしという回答があつた。

7  同日田中は、由松の倒れていた現場近くに更生施設浜川寮があるので、何らかの手がかりがえられるかも知れないと考え同寮に電話照会したが、手がかりはなかつた。

8  翌一〇日岩男は、田中の命により前日の氏名照会に対する回答に基づき、青森県警あて照会電報を発信した。青森県警からは、二日後川村由松は照会に係る者のほか一名いるが、いずれも県下で健在である旨の回答があつた。

9  右と同時に岩男は、田中の命により警視庁管内各警察署あてに、行旅死亡人自称川村由松六五年の死体が発見されたから該当する者がある場合は通報されたい旨の手配電報を発信した。これに対する回答はなかつた。

10  同日岩男は田中の命により由松が所持していた手荷物切符甲片を手がかりとして、横浜駅手荷物係に対し、田中のメモ帳に基づいて同切符記載の番号等の事項を電話で照会したところ、該当品は未着との回答があつたので、大井署の電話番号、担当者氏名を通報したうえ(手荷物係員の氏名を確認していることはもちろんである)、荷物到着次第連絡してくれるように依頼した。しかし、その後連絡はなかつた。

11  さらに翌一一日渡辺は、死者身元照会書を作成し、警視庁を経て警察庁鑑識課へ送付した。これに対し、同月二三日該当原紙発見せずという回答があつた。

12  その後一二、三日ころ田中は、由松の所持していた時計がセイコー社製であることを手がかりとして、同社に対して電話で数号照会(時計の番号による所有者の調査)をしたが、判明しなかつた。

13  右と同じころ岩男は、由松が質屋と取引したことがあれば住所、勤務先等が判明することもあり得ると考え、由松が倒れていた現場近くの質屋(五反田、鮫洲等)を調査したが該当者を発見し得なかつた。

14  同年一一月一八日渡辺は、身元不明死体票を作成し、警視庁を経て警察庁鑑識課へ送付した。由松の身元が判明したのはこれによるものである。

15  原告主張の本件納品書は、東京駅構内で発見された由松の遺失物のボストンバックの中に入つていた。

(四) 同(四)について被告港区の認否

同(四)のうち1の引継ぎを受けた物品中本件財布・納品書・小荷物切符があつたとの点を否認し(本件納品書は遺失物たるボストンバック中にあつた)、その余を認める(但し、作業帽に岩崎組マーク入の点は不知)。

三由松の行方不明と原告らの探索活動および関係公務員の対応措置

(一)  請求原因第一の三の(二)の2についての被告国・東京都の認否

昭和四一年一〇月二四日午後二時三五分ごろ、川村武が遺失物係に出頭し、三橋に川村由松名義の遺失物口頭届書および川村武名義の遺失物受領書を提出し、原告主張の遺失物件の返還をうけて退出したことは認めるが、川村武がその際川村由松の所在が不明であると申しでたようなことは否認する。

(二)  同(二)の1、3ないし9についての被告国・青森県の認否

昭和四二年一月二八日原告から由松の捜索方について口頭による願出を受付けたことは認める。

四慈恵医大での解剖(請求原因第一の四)についての被告港区の認否

慈恵医大が解剖に着手したのが昭和四二年五月一一日であることを認める。

五原告、由松の遺体との対面(請求原因第一の五)についての認否

(一)  (被告国・青森県) (一)を認める。

(二)  (被告東京都・青森県) (二)を認める。

(三)  (被告国・青森県) (三)を認める。

(四)  (被告国・青森県) (四)は不知。

(五)  (被告東京都) (四)のうち、昭和四二年七月七日原告および小山田博見他一名が大井警察署へ出頭したので、田中千一部長はあらかじめ作成しておいた身元判明報告書を原告に手渡し、港区厚生部福祉課へ出頭するよう教示した。

(六)  (被告港区) (四)のうち、原告らが昭和四二年七月七日港区役所を訪れたこと、関武夫が遺留品(但し、これには本件財布・納品書・小荷物切符は含まれない)を手渡したこと、原告が慈恵医大で由松の遺体と対面したこと、は認めるが、由松の遺体がバラバラにされていたことは否認する。

第二被告らの責任

一東京都の責任

(被告東京都)

請求原因第二の一にいつて。大井警察署警察官らが由松の身元調査に従事したことは前述のとおりであるから、同署員らには何らの過失はなく、従つて被告東京都もその責任を負うべきではない。しかし、更に進んで身元不明死体の身元調査義務の限界について考える。

一般に、警察が捜査をするにあたり、事件の内容、性質等の差異から、事件ごとに捜査の程度、方法を変えることは通常行なわれていることである。身元調査に関してみれば、犯罪に関係ありと疑いのある事件と犯罪に関係なしと認められる事件、あるいは生存者に関する事件と死者に関する事件とでは、その調査の程度、方法に違いの生ずるのは当然である。すなわち、あらゆる事件をすべて平等に取り扱い、同質の高程度かつ広範囲の調査を要するとすれば、人員・経費の点からみて警察の能力の限界を越えることになると同時に、効率的な事件処理がなし得なくなることは明白だからである。

したがつて、たとえば凶悪犯罪のような重要事件においては、全国的に手配するなどして大規模な捜査をするのに対し、軽微な犯罪事件、犯罪に関係のない事件においては、その程度に応じ、段階的に捜査の範囲を縮少することになるが、これは現実的にはやむを得ないところであり、またむしろそのような処理方法をとることが、警察に対する国民の信頼にこたえることにもなる。

ところで、本件は犯罪に関係のある事件ではなく、また生存者に関する事件でもなく、死者の身元調査に関する事件である。

本件について大井署員の行なつた調査は、前記大井署員の調査の欄において述べたとおりであり、右の諸調査をしたことにより、本件に関する調査は必要にして十分であるというべきである。とくに、渡辺が作成して警察庁鑑識課へ送付した「身元不明死体票」は、同庁で保管され、他から「家出人票」が同庁へ送付されれば、その時点で照合し、ただちに身元が判明することになるのであつて事実本件においても、青森県警から家出人票が同庁へ送付された段階で、右家出人票と渡辺作成の身元不明死体票とが照合され、ただちに由松の身元が判明しているのである。

なお、渡辺が右身元不明死体票の作成に約三週間を要したことは、当該鑑識係員が二名しかおらず、うち一名は新人であつたため、事実上一人で事務を行なつていたこと、当時他の犯罪事件が多発していたことからみてやむを得ないというべき日数であり、しかも右日数を要したことにより、結果に何らの影響を与えるものでもない。

二港区の責任

(被告港区)

(一)  請求原因第二の二について。被告港区には行旅死亡人の身元調査義務はない(行旅病人及行旅死亡人取扱法第一、七、九、一〇、一九条参照)。死体取扱規則第一、四、六、七条によれば管轄警察署長が死体の身元その他の調査を行い、身元照会を行わなければならない旨規定し、且つ港区などの地方公共団体には身元調査の組織・能力が欠如していることからもそのことは明らかである。殊に本件では、大井警察署・警察庁が全力をあげて由松の所持品等を活用して身元調査をしてくれただけでなく、大井警察署には納品書らしいものや国鉄小荷物切符等から身元調査上の手がかりがえられるのではないかと思つて関が電話したところ、やがて身元確認ができるだろうとの連絡を受けていたのでこれを全面的に信頼する以外仕方ないことだつた。

(三)  公示・公告をしなかつたことは認める、そのことについて過失はない。

行旅病人及び行旅死亡人取扱法第九条によれば、「行旅死亡人ノ住所、居所若クハ氏名知レサルトキハ」告示し、且つ官報若くは新聞紙に公告することとなつている。ところで本件では由松の遺体については「青森県川村よしまつ六五才」ということが知れているので、同法第九条の告示・公告の必要はないこととなる。殊に本件では大井警察署から昭和四一年一〇月九日遺体の引渡を受けた際、同署から「身元は近く判明しそうである」旨の引継ぎがあり、関はその引継ぎにより告示と公告の必要はないと判断したものであり、港区係員が告示・公告しなかつたことは当時の情況から止むを得ぬことであり、また従来の慣例からも、必ずしも告示・公告は励行されていない。

況んや、新聞紙掲載は予算の上からも到底実行できぬのが実情である。従つて、告示・公告せぬ点で責を問わるべきところはない。

(三)  遺品の焼却処分につき故意、過失を問わるべきでないし、身元調査上の責任もない。

行旅病人及び行旅死亡人取扱法第一二条(遺留物件の処分)によれば、保管の物件滅失若くは毀損の虞あるとき又は其の保管に不相当の費用若くは手数を要するときは之を売却し又は棄却することを得るのであり、該物件が身元調査上必要と認められるときは例外であるとの制限がないことからも、保管者の判断により売却又は棄却することが出来る。そして本件遺品は、亡由松が死亡時着用していた衣類身廻品であり保管上、臭気がひどく不衛生であり相当の手数を要するし、保管するに不適当であり焼却処分に付したものである。しかもそれは昭和四一年一二月に入つてからのことで、身元調査上支障は全くなかつた。

三青森県の責任

(被告青森県)

請求原因第二の三について。

青森県警察本部職員の由松に関する取扱いについては以下のとおり何等過失がない。

(一)  警視庁からの身元照会に対する調査

1  昭和四一年一〇月一〇日、午前一〇時四五分ごろ、青森県警察本部に日直勤務中の巡査部長白取柏が、警視庁地方課の福岡某から次のような電話照会を受けた。

自称、青森県人川村由松という者が、一〇月九日午後三時、東京都港区都立民生病院において死亡し、行旅病人として取扱いしているが、調査の結果、本籍青森県三戸郡川内村大字上市川字上市川三一、川村由松(明治三〇年八月五日生)と同一人と認められるので、次の事項を調査のうえ回答願いたい。(1)在籍の有無、(2)転出の場合は、その転出先及び家族関係 (3)家族、知人で上京している場合は、その者の住所、氏名 (4)その他上記川村由松についての人相、特徴等

2  そこで同巡査部長は、直ちに、被照会者の本籍地を管轄する五戸警察署に、前記照会事項の調査方を下命した

3  下命を受けた五戸警察署の櫻井巡査部長は、上市川警察官駐在所勤務の阿部円蔵巡査と協力して調査し、その結果を一〇月一一日、青森県警察本部捜査第一課に電話回答した。

4  電話回答を受けた捜査第一課の事務担当者である巡査部長姥名昭三は、右調査結果を一〇月一二日に警視庁地方課へ電話回答した。

5  以上のとおり青森県警察本部の職員および五戸警察署の職員は、警視庁からの照会に対し、徹底した調査を行なつて回答している事実から、このことについては、何等過失はない。

(二)  由松の捜索願出に対する措置

1  原告は、昭和四二年一月二八日に、他の二名と一緒に十和田警察署を訪れ、原告の夫由松を家出人として捜索してもらいたい旨、口頭で願出があつたので、同署の防犯係員である巡査出町善次郎が、これを受理し、県本部の主管課である防犯課の事務吏員相馬繁に報告した。

2  右の報告に接した相馬吏員は、原告が願い出た由松は、家出人ではなく、ここ数年来の出稼者であつて、しかも原告の意思に反して所在をくらましたものとも考えられず、さらに、立廻り見込先についても、「関東、関西方面の工事場及び各地の職業安定所」となつていて、県外に対する一般手配ができないと判断したので、これを家出人として取扱う必要はないと出町巡査に回答した。

3  そこで出町巡査は、すでに家出人手配簿の用紙に該当事項を記入した後でもあつたので、後日他県などから、由松についての照会があつた場合などを考慮して、一応資料として使用することとし、抹消することなく編綴保存しておいた。

4  ところが出町巡査は、同年三月二七日づけで、十和田警察署からむつ警察署へ配置替を命じられたので、それまで手空きの場合は、出町巡査の仕事を手伝つていた刑事課員事務吏員槙和男に、由松の資料のことについて伝えておいた。

5  その後槙吏員は六月下旬になつても一向に由松の音信がないことを知り、期間も相当経過していることでもあり、場合によつては、何らかの手掛かりが得られるかも知れないと判断し、同人の家出票を作成して県本部の鑑識課に送付した。

6  これを受理した県本部鑑識課では、その写を警察庁に送付しておいたところ、警察庁から、警視庁管内の身元不明死亡者の中に、由松に似ている者があるから、「身元不明死者便覧」(その頃配布になつたもの)により確認させるようにとの連絡があつたので、七月五日ごろ、十和田警察署では、原告に前記便覧(写真集)を閲覧させた結果、その中の三四二号の写真の者が、原告が捜している夫由松に違いないことを識別し、確認することを得た。

7  原告から願出があつた当初において、由松を家出人でないと判断し、その後相当期間経過しても、本人から音信がないということから、好意的に、これを家出人と同視して家出人票を作成した措置は、公務員がその職務を行なうについて、何等過誤があつたものではない。

四国の責任

(被告国)

請求原因第二の四について。

原告は、被告国は警察行政を都道府県警察へ機関委任しており、これを指揮監督する義務を負つているので、警視庁の死体取扱に関する過失及び青森県警察の家出人手配に関する過失につき、被告国もその責任を負う旨主張する。

しかし、警察事務は、憲法の地方自治の本旨に基づく要請から地方公共団体の事務とされているものでありこのことは、判例上も確立されているところである。すなわち判例においては、国の事務として地方公共団体の事務から除かれている司法及び刑罰に関する事務(地方自治法第二条一〇項一号、二号)に密接な関係を有する司法警察及び警備警察さえ地方公共団体の事務とされているのである。

そして、家出人手配事務及び死体取扱事務は、地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、健康及び福祉の保持に関する事務すなわち行政警察に関する事務に属するものであつて、これは地方自治法第二条二項、三項により地方公共団体の事務とされているのであり国の機関委任事務でないことに明らかである。

なお、家出人手配に関する事務は、国家公安委員会及び警察庁長官の定める規則、通達等に基いて行われているが、これは、各都道府県の実施する当該事務を組織的かつ能率的に処理させる必要から警察法第五条二項一二号、第一七条により「警察職員の活動の基準」として定めたものであり、前記事務が当該都道府県の事務であることに変りはないのである。

それゆえ右事務が国の機関委任事務であることを前提とする原告の主張は理由がない。

五補助参加人の主張

(一)  補助参加人には何らの過失はない

1  由松の身元確認に役立ちうる十分な資料は全く見当らなかつたのであり、その調査が不十分であつたことはない。従つて早期に由松の供養ができなかつたことにつき、責を負うべき理由はない。

2  由松の死体を港区長に引渡した後の措置については、補助参加人の全く関知しないところで、訴外人の死体が港区長から慈恵医大に交付され、原告主張の如き状態になることは、補助参加人において死体を港区長に引渡すときに予見したことはなく、また、その措置は港区長の独自の取計いで、補助参加人が関与したり、予見したりしうべきものではない。従つてかりに、補助参加人に由松の身元調査の実施につき何らかの過失があつたとしても、そのことと行旅死亡人の死体の取扱方法としてこれを港区長に引渡したこと、さらに港区長が右大学に死体を交付した後におけるその変貌の発生との間、何らの因果関係はなく、中断せられているものというべきである。

3  ボストンバッグ内には、日記帳は存在しなかつた。また、遺失物交付の際、小山田博見から由松は所在不明であるとの申告並びに調査方依頼を受けたことはない。遺失物係はそのような申告を受理すべき立場にはない。

(二)  死体取扱規則は、死体を市区町村長に引渡した後における警察官の身元調査義務を定めたものではない。そもそも死体取扱規則は、第一条に目的を掲げる如く、死体がある場合、死因の調査、身元の照会、遺族への引渡、市区町村長への報告など死体そのものの行政上の取扱方法、手続事項を定めたもので、その文理上明らかな如く、死体発見直後における緊急措置方法を定めたもので、その後の調査のことについてまで定めたものではない。すなわち、第四条は警察署長の措置、第六条は死体の身元調査に支障を来たさないようその特徴の調査を命じたもの、また、第九条は死体の本籍が不明の場合、市区町村長への死亡報告、死体等の引渡などの死体の取扱方法を規定したものに過ぎず、死体の身元につき、その引渡後も継続的に間断なく調査すべきことの義務を直接定めていないし、またかかる定めをしたものでもない。

(三)  行旅死亡人の身元照会は、死体取扱規則第七条の照会をなすを以て足りるものである(調査の程度)。

由松は行旅中死亡し引取者がなかつた行旅死亡人であり(行旅病人及行旅死亡人取扱法一条)、その死体発見の報告を受けた警察署長は死体取扱規則四条の措置をなすべく、その身元は明らかでないのであるから、同規則第七条による身元照会をなすべく、かつこれを以て足れりというべきである。そしてこれに副う調査は十分実施したのである。

なるほど早期にその身元を調査判明させることは望ましいことではあるが、既に故人となつているのであるから、その調査は急患の措置、重要犯罪の捜査検挙の場合の如く緊急措置を要するものではなく、その調査の取扱を特に遅らせるなどの特段の事情のない限り、通常なすべき時期に通常なすべき調査を順次実施すれば、たとえその結果判明に長期間を要したとしてもこれを以て担当係員の過失としてその責を問わるべき筋合ではない。

(四)  由松は自己の身元を秘匿しようとしていたため、その身元調査を困難ならしめたものである。すなわち、

1  由松の本籍は十和田市東三番町五五番地六、住所は青森県十和田市東三番町三丁目九番地であるのに、由松は都立民生病院において、その本籍地として三〇キロ余離された青森県東津軽郡であることを述べており、同地は原告の主張による由松の経歴地とは全く関係のない地域であること、そしてこの地名の表現は意識的であつたというべく、

2  結果的には病状は軽症ではなかつたのに、できるだけ病院を離れ単独であることを希望した状況がみられること

3  名古屋駅より横浜市鶴見区内の止宿先(知人先?)に手荷物を送付するに際し、駅に対し、届先地として現存しない町名を記載して横沢駅止めとしていたこと

4  生活保護の申請をした家庭状況であるといいながら、特段の理由もないのに、死亡当時男物腕時計二個、遺失のボストンバッグ内に一個、計三個の時計を所持していたという、それが転売の目的であつたのか、他の目的であつたのか判明しないが、何れにせよたやすく首肯し難い事実があることを参酌考慮するときは、由松は何らかの事情でその身元を明らかにすることを欲せず、寧ろこれを秘匿しようと努めていたものと思われ、このことが由松の身元調査を困難ならしめたもので、本件身元調査遅滞の原因は由松にあるというべきである。

(五)  身元不明死体の身元調査の程度

すべて国民は個人として尊重され、国民としての権利については公共の福祉に反しない限り立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とせられている(憲一三条)が、それはあくまで生存の個人に対するもので、本件の如き死者に対するものではない。従つて死者を処理する場合における諸般の調査は前記の死体取扱規則の注意に反しない限り、生存する個人に対するそれと同程度のものたることを要しないことは、当然であるといわねばならない。

しかも地方公務員は、その所属地方公共団体の奉仕者であるから、明らかな病死体一個のためにのみ専一に乃至は他を放棄してまで勤むべき筋合のものではない。

なるほど、死体を市区町村長に引渡した後も、身元調査を継続し身元を早期に判明させることは、遺族感情に対しても、事務処理上からしても、望ましいことではあるものの、前記の見地からすれば、ことの要緊急性の度合、行政組織の機構、配置人員数、総体の規模等各具体的事情により必ずしもその望ましいとおりには実施しえないことも生ずべく、かかることを以て直ちに職務違背として違法視することは妥当でない。

本件でいえば、由松は当時既に故人であり、死亡は犯罪に基因しないことが明らかで、もはや緊急性はないのであるから、或る程度の継続調査をなすことは格別、本件のみを即時に、しかも継続して間断なく管掌する要はないものというべく、事務の繁閑緩急に応じての処理が許さるべきことは当然で、かかる事情のため当該事務が多少遅延することがあつても己むをえないのである。かかる場合、故意に調査を遅らせるとかの特段の理由のない限り、事務の遅延は許さるべく、それがため予見しない結果が生じたとしても、担当員に義務違背乃至は重大な過失または職務違背があるとすることはできないものというべきである。

また、担当員の多少の調査の遅延は、当不当の問題で、その一事を以て直ちに職務違背であるとして違法視することはできないものと考える。

第三原告の被つた損害・因果関係

(全被告共通)

請求原因第三の一ないし三をいずれも争う。

(被告東京都の主張)

一因果関係について

仮に、大井署員に調査義務違反の過失があるとしても、右過失と由松の遺体が学術用解剖に付されたことの間には因果関係がないというべきである。

(一)  不法行為についても、債務不履行に関する民法四一六条の規定を類推して適用することは、判例・通説の一致して認めるところであり、右規定は相当因果関係の範囲を画したものと解されている。

ところで、相当因果関係説の要点は、原因結果の関係を、ある特定の場合に妥当することをもつて足れりとせず、他の一般の場合にも妥当する場合に限り、原因結果の関係を認めんとするところにあり、その特徴は原因の普遍化である。

そして、民法四一六条は、通常生ずべき損害の賠償を原則としつつ(同条一項)、特別の事情による損害も加害者に予見可能性があれば賠償すべきだとしている。(同条二項)

(二)  これを本件についてみると、調査義務がつくされていれば由松の遺体が学術用の解剖に付されなかつたのであろうとのいわゆる条件関係が認められることはあるかも知れない。

しかしながら、まず、調査義務違反から身元不明者の遺体が学術用の解剖に付されることは、調査義務違反から通常発生する結果と認め得ないことは明白である。

また、由松の遺体が学術用の解剖に付されるという特別事情の予見が、大井署各担当警察官において可能でさつたとはこれまた認め得ないところである。すなわち、一般に、警察官は、その職務上いわゆる行政解剖および司法解剖についての知識はもつていると認められるが、学術用解剖の内容について―たとえば身元不明死体が学術用の解剖に付されることがあること―まで知つていることはないし、またそれを知る必要もないのである。

ところで、本件を担当した警察官も、いずれも学術用の解剖に付されることをまつたく予見していないことは、区に引き渡せば火葬になると思つていたし、従来通り扱つた身元不明死体は全部遺骨で受け取つたと聞いているということからも明らかである。

しかも、学術解剖用の遺体が当時不足していたということは、一般に周知している事柄ではなく、週刊大衆の記事も本件発生後のものである。

(三)  以上から明らかなように、本件において由松の遺体が学術用の解剖に付されるという特別事情の予見が可能であつたことは認め得ないのである。

二損害について

仮に、大井署員に過失があり、かつ、この過失と由松の遺体が学術用の解剖に付されたことの間に因果関係があるとしても、原告には何らの損害も発生していないというべきである。

(一)  原告は、慈恵会医科大学加藤征医師の由松の遺体をみない方がよいとのすすめを拒否し、医学に関係のある者だから解剖遺体をみても気持が悪くなることはない等と同医師に強引に頼み込み、無理に遺体をみるに至つたものである。加藤医師は、原告の右要求があつたので、別室に遺体を運び、目、鼻、口を除いては全部ほう帯で巻いたのち原告に遺体をみせたのであるが、その結果は、原告はびつくりしたような状態でもなかつた。

(二)  そもそも、本件は由松が生前自己の住所を述べなかつたことに起因するものである。由松の死亡前の状態は、京浜中央病院においては、意識は明瞭で応答し得る状態であること、倒れた現場付近に知人がいるから帰るという由松の要望に応じ、救急車が再び由松を現場へ送り帰した事情があること、さらに由松は、氏名のほか本籍地として実際とは異なる「青森県東津軽郡」と申し述べていることからみて、由松が自己の住所をいい得る状況にあつたことは明白である。由松は何らかの事情で故意に自己の住所を述べず、実際とは異なる地名を述べたりしている。

このように、故意に自己の本籍、住所等をかくし、これに起因して学術用の解剖に付される結果が生じたような場合には、仮にそのため配偶者たる原告に精神的苦痛が生じたとしても、原告はその損害を請求し得ないというべきである。

(被告港区の主張)

(一)  原告は看護婦の経験があり、由松の遺体と対面したときも感謝して遺体を引き取つており、精神的な打撃、ショックなどを受けた様子はない。

(二)  仮に、被告港区に何らかの調査上又は遺体処理、遺品処理上の過失があつたとしても、由松は何故か「青森県東津軽郡」の川村よしまつと自称して自分の住所を明言することを拒否し、加えるに全く住所地でない「東津軽郡」と称している。とにかく自身の住所、氏名を故意に秘匿していたこと明らかであり、家庭への連絡を嫌悪していた。しかも身元が判りそうな書類なぞは身につけていなかつた由松は名古屋から自宅の外、横浜駅止めの手荷物を送つており、自宅へ直ぐ戻る意思は全くなかつた。

このように事後の身元捜査が難行し、遅滞した要因が実に由松の曖昧な右供述にある。

また、原告の由松に対する捜索の措置についても相当の遅滞があつたことが認められる。

従つてこれらの点について過失相殺を主張する。

(三)  大学病院から解剖用遺体の不足のため身元不明者の遺体が出た場合、できるだけ解剖用遺体としてまわすようとの要請はなく、被告港区として作為的に解剖用として慈恵医大へ遺体を廻したとの事実もない。

(補助参加人の主張)

(一)  損害について

原告は、本訴において作為義務違反を原因として、被告国に対しては金五〇万円、被告東京都に対しては金一〇〇万円の損害賠償を求めているが、その請求額を国と東京都の間で異なる理由は明らかでない。

そして損害額算定の根拠として、由松の死体が解剖資料となつたことを挙げ、原告の精神的苦痛としている。

しかしながら、解剖資料となつたことは、警察係員の死体引渡後における港区役所の措置であり、そのことは被告都の補助参加人において予見しまたは予見しうべきことではないので、死体の引渡と解剖との間に相当因果関係はない。しかも、原告は、眼、鼻、口以外を繃帯を以て包まれた由松の解剖体の状況に接しても、自らが看護婦の経験があること、医者の方に関係がある者であること及び既に夢によりかかる状態あることも予期覚悟していたので、別段驚くことはなかつたというのであるから、少くともこの点に関する精神的損害(主観的損害)はないものというべく、それに対する慰藉料を請求することはあたらないものというべきである。

かかる事情のもとにおいても、なお、損害賠償責任があるとせられるとしても、由松は、搬入された病院内で意識は明瞭であり、住所を問われても何故か自己の身元を明かにすることを欲しなかつたもので、もし当初から身元を明答してさえおれば、本件の如き結果は生じない筈であるから、その責任はあげて原告側にあるというべきである。死に瀕する病状にある患者が、病院内で症状がある程度回復した際、最も簡単な当然の所作ともいうべき住所を明らかにすることを何故回避したのであろうか。第三者に対し、自己の身分を明らかにできない事情乃至は帰郷することを欲しない何らかの理由(原告との前記家庭状況を外にした)があつたのではあるまいか。

結果的には、由松が住所を明らかにしなかつたことが本件を惹起するに至つたもので、その損害については相当斟酌せらるべきである。

(二)  因果関係について

補助参加人の行為と損害との間に相当因果関係はない。

原告は、由松が死体解剖を受けたことによつて生じた状態を基礎として、被告東京都に損害賠償を求め、これは担当警察官が由松の所持品の点検をなすにあたり、その一部を見落した結果によるものであるとしている。

しかしながら、不法行為の直接的結果から、更に派生した損害を当該不法行為に基づくものとしてその行為者に帰責せしめるためには、行為と損害との間に単にかかる条件関係があるのみでは足りず、両者の間に相当因果関係があるものとみられる場合であることを要する。そして行為者に過失があるとされるには、損害発生の可能性、すなわち、行為の際行為者が認識した事情並びに通常人ならば認識しえた事情を基礎として、その行為が一般的に同様の結果である損害を生じうる可能性があり、それを行為者が行為当時に予見可能であることが必要である。

いうまでもなく、不法行為に基づく損害賠償の範囲についても、民法四一六条を類推適用すべきである。

そこで、かりに、担当警察官に由松の所持品点検に際し何らかの見落しがあつたとしても、警察官としては、当時行旅死亡人の死体が医科大学病院に移され解剖目的に供せられることまでは、予見せず、また、予見しうべきものではなかつたのである。

すなわち、行旅病人及び行旅死亡人取扱法七条によれば、死体所在地の市町村長はその死体の埋葬又は火葬をなすべきこととなつている。

また、墓地、埋葬等に関する法律(昭23.5.1、法律48号)九条によれば、死体の埋葬又は火葬を行う者がないとき又は判明しないときは、死亡地の市町村長がこれを行わなければならないとしている。

これらの規定の趣旨は、身元不明者の死体そのものは、ことの性質上速かに埋葬または火葬により措置すべく、特別の事情のない限り、衛生保持の見地から措置の遷延を許さない法意と解せられる。そしてその措置方法は、都市においては現在火葬が一般原則であり、このことは何人も疑いを挾む余地のない常識となつている。なお、身元不明死体の措置方法としては、死体取扱規則及び前記二法が制定せられているところ、死体の措置としては第一義的には火葬であるとすることについては何人も異議を唱えるものはないと思う。そして身元不明死体を取扱う警察官としては、その職務上常に関係法規を研究し、ことにあたつて遺漏なく処理することができるよう知識を涵養しておくべきは当然の任務というべきであるけれども、それはあくまで自己の担当職務及び通常人のなす程度の範囲内においてのみいいうることである。本件の死体処理についていうならば、死体発見後これを港区長に引渡すまでのことに限られるというべきである。

なるほど、死体解剖保存法(昭24.6.10、法律二〇四号)が制定せられ、これによれば、医科大学においては死亡確認後三〇日を経過するときは、保健所長の許可、遺族の承諾をうることなく死体解剖をすることができることとなつている(同法二、七条)。

しかしながら、警察官としても、また、法律事務担当者としても、自ら解剖事務の担当者或はその関係者ならば格別、しからざる限り、果して常に担当職域外の死体解剖保存法にまで思いをいたし、市区町村長への死体引渡後それが更に病院に保管され、次で一定の期間経過後解剖が自動的に許されるとの法規定、現実の取扱状況まで考え及ぶ者が多数あるであろうか。かかることを考るときは、職務上身元不明死体の医科大学における解剖事務の実務を経験することなく、かつ、その法規を研究する立場にない担当警察官としては、死体を市区町村長に引渡す際は勿論、医科大学病院における解剖前においても、解剖に関する通知連絡は受けないのであるから、まずは常人の思考するが如く前記の行旅死亡人取扱法、墓地、埋葬等に関する法律に従い、死体は火葬になると考えるのは当然で、港区長が死体解剖保存法により死体を医科大学病院に保管を託し、法定の期間経過後には解剖に付せられることまで予見すべきであるとすることは無理で、いわば、客観的にも予見可能性はなく、たとえ予見しなかつたとしても強ちこれを責めることはできないものというべきである。

そのことは、たまたま担当警察職員の死者に対する身元調査が不十分であるため身元が直ちに判明せず、ために死体が所轄区長に引渡され、次で、死体解剖保存法による法定期間の経過とともに解剖せられ、死体に損傷をきたす結果を生じたとする場合でも同様で、そのこと自体では未だもつてその間当然に相当の因果関係があるものとすることは相当ではないといわねばならない。

右は特別事情であるから予見可能性のある場合においてのみ責任を追及せらるべきである。

本件についてみるに、担当警察員の港区長への由松の死体引渡と港区長から死体受託の医科大学病院の死体解剖行為との間、損害の発生につき相当因果関係があるとすることはできないものというべきである。

原告は、各医科大学において、解剖用死体が不足し、大学は都内区長に死体の引渡方を懇請していたのが実状で、そのことは担当警察員として当然知りうべく、由松死亡当時においても担当係員はそのことを知悉していたもののように主張するけれども、そのようなことはない。そもそも医科大学における死体解剖問題が世上論議せられるに至つたのは、由松に関する事項がNHKの現代の映像に取りあげられた時期、すなわち、由松死亡後一年余を経過した昭和四二年一一月当時で、由松の死体措置当時においては、身元不明者の死体が大学に保管され、それが解剖の対象となることは未ば世論にのぼらなかつたのであるから、警察官といえども、解剖には関係がないのであるから、それ以前にかかる記事記載のことを知りうべき筋合ではなく、これを以て担当警察員の予見可能性の有無を論じる根拠とすることはできない。

その二(以下すべての被告国の答弁)

第一出稼ぎの実態(請求原因第二)について

争う。

第二被告国の責任(同第四)について

争う。国の憲法上の義務について被告国は次のとおり考える。

原告は、被告国は憲法第一三条、第一四条第一項、第二五条等により国民の幸福増進のための諸政策を行なうべき具体的義務を負つているにかかわらず、その実現を怠つた結果、由松を出稼ぎに追いやつたものであるから、同人が出稼ぎ先で死亡したことにより原告の被つた精神的損害を賠償する義務がある旨主張する。

しかし、被告国が憲法上の義務を怠り国民の権利を侵害したことはなく、また憲法第一三条は、国家の国政上における心構えを表明したもので、抽象的内容の規定であり、同第二五条は、一般私法でいうような具体的な権利、換言すれば、これに対応する国の法律上の義務があるところのものではないので、この点からも原告の右主張は理由がない。

(証拠関係)<略>

理由

その一……由松の遺体解剖を原因とする被告らへの損害賠償請求

第一本件事実の経過

一  由松最後の出稼ぎとその解雇

(一)  由松と原告が夫婦であつたことは当事者間に争いないところ、<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1 由松・原告夫婦はもともと原告の経営する大衆食堂「大陸食堂」で得る収益を生計の基礎としていたのであるが、近所に右食堂より立派なたたずまいの食堂が出来るようになつてから、大陸食堂の経営も次第に不振となり、原告夫婦の日々の生活も困難の度を増したのであつた。そこで由松は、かつての満州における鉄砲での右腕貫通銃創により不自由な右腕を有していたにもかかわらず、原告夫婦の生計の一助になりたいとの願いから、昭和三七、八年ごろを境に、北海道あるいは神奈川県方面に出稼ぎに出るようになつた。しかし、原告夫婦に子供がないことから、年老いた夫婦が別々に暮らすことの寂しさ、由松の身体は右腕の不自由のみならず寄る年波で次第に弱まつてきていること等の理由から、昭和四一年度は原告が由松の出稼ぎに反対したので、由松も同年は出稼ぎに出ることを一応見送ることにした。

2 しかし、そうはいつても原告一人で経営する大陸食堂の収益で原告夫婦を維持することは困難であつたので、昭和四一年五月ごろ原告はせめて由松について生活保護が受けられないかと思いたち、由松の従兄弟であつて十和田市市会議員をしている川村末吉に右のことを相談した。そこで川村末吉は十和田市社会福祉事務所に、他の用事もあつて赴いた際、そこにいる職員に向い、誰にともいうことなく由松に生活保護が受けられないかどうかを打診してみたところ、職員からは「あそこは電話もあるし、そば屋もやつているので福祉の対象になるかなあ」という返事が返つてきた。従つて川村末吉の方でも、関係法律の規定に従つて由松の生活保護の件を検討してみてくれるように職員に話して、この点についての話を打ち切つた。

3 それから数日後、右福祉事務所の職員で社会福祉主事の肩書を有する浜中俊三は仕事の途中原告方を訪れた。そして生活保護の件については、原告方には電話はあるし、営業もやつているから生活保護は受けられない旨申したので、原告としては由松だけでも生活保護を受けられないかと懇請したところ、浜中は由松だけ生活保護を受けるためには形式上だけでも夫婦離婚するということにしなければむつかしいことを述べたので、原告らはそこまでしてでも生活保護を受ける気持もなく、由松の生活保護を受けることを断念した。

4 同年八月、原告らの知人で原告らと同じ青森県十和田市に住む桜田春蔵は、出稼ぎ人の募集を兼ねて出稼ぎ先の愛知県から盆の墓参に帰省した際由松と出稼ぎの件について話しあう機会があつた。そのとき由松は原告に相談することもなく、愛知県知多郡の梅田工務店に出稼ぎに出ることを決心した。

そして同年八月一八日、由松は桜田春蔵その他一人と共に梅田工務店に向けて十和田市をあとにした。

5 梅田工務店では、由松が六五才の老令であること、右腕は自由がきかないこと等の理由により、単なるお茶くみ、お湯わかし、道具のあとかたづけ等の、所謂雑役夫としての仕事に従事させていた。ところが、同年九月に至り、由松は工事現場から仕事を終えて帰つてくる途中、現場近くを走る名古屋電鉄軌道上にしやがみ込んだので、現認した運転手が電車を急停車させるという事件がおこつた。そこで由松の労働能力・健康状態に疑問をもつた梅田工務店の社長は桜田春蔵に対し即刻由松を解雇し、田舎に帰することをすすめたが、梅田工務店の給料支払が二五日〆、五日払になつているので、桜田は右社長にせめて一〇月五日の支払日まで由松を使つてくれるように頼んでその同意を得た。

6 一〇月六日解雇された由松は前年出稼ぎにきたことのある横浜市の佐久間鋳工所で働いていく心算であつたので、国鉄名古屋駅まで見送りにきた桜田春蔵に手伝つてもらつて十和田電鉄三本木あて小荷物(内容は「茶」等)一個(配達付)と国鉄横浜駅あて手荷物一個(駅留)の各搬送を委託し、同日午後ひとり名古屋を立ち横浜に向つた。

(二)  <証拠判断略>

二由松の死

(一)  当事者間に争いない事実と、<証拠>を総合して認められる事実とによれば、次のとおりである。

1 昭和四一年一〇月九日(日曜日)午前九時二〇分ごろ由松が東京都品川区東大井一丁目七番小松自動車株式会社前路上において倒れていることを、通行人からの報知電話(同日午前九時二三分)により覚知した東京消防庁大井消防署大井救急隊は、小隊長遠藤正治、隊員宮田竹春・深川勝博、機関員橋詰昭治の計四人で現場に急行した。そのときの由松は作業服を着、岩崎組のネーム入作業帽を被り、手にほうきを握り、足をおりまげてうつぶせになつた姿勢で倒れていた。隊員の看護の結果によるも、由松の意識はもうろうとしており、脈搏は早く、腰は立たず、歩行は困難であり、隊員が質問してのぞき込んでも口が動く程度で、応答も要領を得ない状態であつたので、右救急隊は救急指定病院京浜中央病院(品川区南大井一―一―一七所在)に由松を輸送した。

2 右病院では、日直医高田貞夫医師が診断をした。脈搏は一分間一二〇で規則正しく、血圧は一〇八から七六、四肢運動障害なく、瞳孔対光反射正常、瞳孔の大小不同なく、両側の肺にラッセルが聞こえるということと、問診により判明した由松は前日の夜寝ないで仕事をし、当日の朝食もとつていないということから、栄養失調、過労、睡眠不足、全身衰弱、肺炎の疑いもあるという診断の下に、強心剤と栄養剤の注射が施された。右治療の結果由松の意識も次第に明瞭になり、医師との応答も出来る状態になつたが、高田医師、看護婦岩井和子(当時の姓は伊賀)らが、こもごも由松の住所・身分関係を尋ねると、「青森県の川村由松、六五才」ということまでは述べたが、それ以上のことは述べようとしなかつた。岩井看護婦は由松が空腹であることを認め、パン二個と牛乳一本を買つてきて与えたが、パンはあまり食べず、牛乳はこぼしたりして三分の一位しか飲まなかつた。

ところで、当日は日曜日であつて高田医師が日直であつたが、京浜中央病院は個人経営の病院で、当日勤務の看護婦も岩井和子一人しかいなかつたこと、診察結果によれば、由松が骨と皮ばかりにやせこけており、疲れ果てているということで、高田医師は岩井看護婦と相談の上、身寄りのない人を収容するような病院に由松を移して治療させたほうがよいから、そういう病院があれば由松を連れて行つて欲しい旨、救急隊に話したところ、救急隊もそれを了承し、都立民生病院(港区赤羽橋一番地所在)へ由松を転送することにし、由松のからだを隊員が支えて京浜中央病院を辞した。

3 ところが、救急車に乗せられた由松は救急隊員に対し自分が倒れていた所付近に知人で村上(或いは村田)なる人物がいるので、そこにいきたいといいだしたので、救急隊はその場所に行き、宮田隊員が一〇分間位由松と共に由松の知人なる者を捜したが見つからないばかりか、由松の足はよろけ、疲労も激しくなつたので、急いで病院へ連れていつたがいいと判断し、民生病院に急行し、同日午前一一時二七分民生病院に収容した。

4 民生病院での由松との応答の結果、由松は前記京浜中央病院での応答の結果判明したことを除けば、明治三四年三月一〇日生れで、本籍を青森県東津軽郡と答えた。来院時由松は顕著な呼吸困難をきたしており、午後零時には酸素吸入を行ない、一時期軽快したが、午後一時半また呼吸困難をきたしたので、同二時に再び酸素吸入を開始し、同二時二〇分に人工呼吸を始めたのであるが、その手当もむなしく、同二時五〇分に呼吸停止し、同三時に死亡と認定された。死因は冠動脈硬化症、脳軟化症、急性肺炎と認定された。

右由松死亡の通知は、民生病院から大井消防署救急隊へ、そこの遠藤正治から大井警察署へと伝達された。

(二)  証人遠藤正治は、京浜中央病院で由松は知人である村上(或いは村田)なる人物が倒れていた現場付近にいるので帰りたい旨救急隊員に述べるので同隊員は高田医師の意見を聞いた上、由松を連れて現場に舞いもどつた旨の供述をしているが、<証拠>に照らし、前記のとおり認定する。

三由松の遺体の身元調査と取扱い

(一)  当事者間に争いない事実と、<証拠>を総合して認めうる事実とによれば、次のとおりである。

1 警視庁大井警察署捜査係巡査部長田中千一は昭和四一年一〇月九日午後三時四五分ころ大井救急隊の遠藤正治より、同日午後三時ころ青森県の川村由松と名乗る者が民生病院で死亡したこと、同人は行旅死亡人で大井救急隊が関与した一応のいきさつについて電話連絡を受けたので、同署同係鑑識担当巡査部長渡辺金平を帯同して、右遺体を見分するとともに死因、身元その他の調査を行うべく民生病院に赴いた。

そこでは先ず民生病院作成の入院状況調と題する書面を見て、由松が身元不明であること(判明しているのは、由松の病院での陳述によれば、本籍地が青森県東津軽郡、生年月日が明治三四年三月一〇日生、氏名が川村由松ということ)、由松は行旅死亡人であることを再確認し、死因を尋ねた後、死体安置所で由松の死体の点検をした。その段階で田中・渡辺両巡査部長は由松の死亡は犯罪に起因するものではないことを確信した。それから両巡査部長は死体のそばに置いてあつた由松の衣類を検査し、白ワイシャツにはカワムラという洗濯ネームが入つていたこと、作業帽には岩崎組という名が入つていたこと、ズボンの中に「川村」という印鑑があつたことを確認し、渡辺巡査部長は由松の遺体の胸部から上および衣類等を写真撮影した。その後病院の事務室にもどり、病院から由松の遺留品として封筒に入れたものを手渡された。その遺留品とは、本件財布およびその中に在中していた本件納品書・本件小荷物切符・本件手荷物切符・国電の切符五枚(昭和四一年一〇月七日発行東京駅から四〇円区間・五〇円区間各一枚、同年同月八日発行大井町駅から二〇円区間一枚等)およびそれが入つていたマッチ箱、成田山の御守札、その他に現金一〇、二一九円、腕時計二個等であつた。田中・渡辺両巡査部長らは右事務室で右遺留品について調査点検をしたが、本件納品書および本件小荷物切符については見おとしてしまつた。再び封筒に遺留品を入れて、田中巡査部長らは同夜午後六時半ころ大井警察署にもち帰り、同署防犯係巡査前田義男に引継ぎをした。前田は死体取扱規則(昭和三三年一一月二七日国家公安委員会規則第四号)第九条の規定に則り、死体及び所持金品引取書を作成して由松の遺体、所持金品を引渡すべく同夜被告港区を訪れ、宿直員田中隆紀・桑野信弘にその引渡しをした。

2 由松の身元調査のため、大井警察署員が当夜したことは次のとおりである。

(1) 田中巡査部長の命により、岩男英明巡査は「青森県の川村由松」ということと警察庁刑事局鑑識課宛氏名照会(所謂A号照会)をしたところ、福島県に一名、青森県三戸郡川内村大字上市川字上市川三一に一名(明治三〇年八月五日生)抽出されたので、後者の川村由松(以下「三戸郡の由松」ともいう)が本件由松と同一人ではないかと推測し、田中巡査部長と岩男巡査は青森県警察に対して電話で左記事項について調査を依頼すべく起案をした。

イ 青森県三戸郡川内村大字上市川字上市川三一

川村由松の在籍の有無

ロ 転出の場合はその転出先及び家族関係

ハ 家族、知人で上京している場合はその者の住所・氏名

ニ その他「三戸郡の由松」についての人相、特徴等

(2) 東京都の更生施設で労務者が多く収容されている浜川寮に電話して、青森県の川村由松なる者がいたかどうか尋ねたが、何らの手がかりも得られなかつた。

(3) 由松の作業帽に岩崎組という名が入つていたので、職業別の電話帳で大田区・品川区内の岩崎組という土建関係業者を拾いだして青森県の川村由松なる者がいたかどうか電話で調査したが何らの手がかりも得られなかつた。

(4) 田中巡査部長は警視庁管内の各警察署長宛電報による行旅死亡人の手配の準備として、電報文を起案した。

3 翌一〇日岩男巡査は前日の起案に基き青森県警宛調査依頼の電話をなし、且つ警視庁管内各警察署長宛電報を発信(但し、後者については本件全証拠によるもその具体的内容・目的等判明しない)したが、大井警察署員らは右青森県警への調査依頼の結果に非常な信頼をおき、由松の身元判明は容易であろうと判断していた。

4 大井警察署では由松の遺品中にあつた腕時計二個の側番号をメーカーに問いあわせたり、賍品照会をやつて質屋を調べたが、いずれも由松の身元については何らの手がかりもつかめなかつた。

5 岩男巡査は、田中巡査部長の命により、本件手荷物切符をたより横浜駅手荷物係に対し、電話で照会したが、該当品は未着であるとの回答があつた。

6 一〇月一〇日大井警察署警部補高橋長年は渡辺巡査部長、岩男巡査を帯同して民生病院で由松の遺体を見分し、由松の十指指紋を採取し、死因の調査の為に依頼していた東京都監察医務院医師井出一三により由松の死体検案をしてもらつたが、病死の疑あるも死因不明ということで、監察医奥平雅彦が解剖した結果、由松の直接死因が冠状動脈硬化症であることが判明した。

7 他方一〇月一一日宿直員から由松の所持金品を引継いで引渡を受けた被告港区厚生部福祉課援護係員関武夫において、右所持金品を点検したところ、本件財布から本件納品書や本件小荷物切符、本件手荷物切符等がでてきたので、これらは由松の身元を調査する上に必要ではないかと判断して、大井警察署に対し、右書類の具体的内容については触れなかつたけれど「身元を調査するのに必要と思われる書類が入つているがどうだろうか」という趣旨の電話をしたところ、右署員からは「今、青森県に該当者と思われる者がいるので必要ないだろう、身元の判明にそんなに時間はかからんだろう」という返事であつた。関は由松の身元はすぐ判明するだろうとの警察の連絡を信じ、上司にもその旨報告し、従つてまた、被告港区は「行旅病人及行旅死亡人取扱法」(明治三二年三月二八日法律第九三号)第九条の規定にいう掲示場への告示および官報もしくは新聞紙への公告をしなかつた。後記の如く、大井警察署から青森県警に調査依頼した「三戸郡の由松」と本件の由松が同一人ではなかつたことが判明して、その旨大井警察署から関武夫に対し連絡があつたが、被告港区としては右告示・公告をすることもなく、本件納品書・本件小荷物切符等について再度大井警察署と連絡をとりあうようなことも一切しなかつた。

8 大井警察署からの前記3の調査依頼に基き、青森県警察で調査した結果、青森県三戸郡五戸町大字上市川字明神平44の7の2居住川村由松(明治三〇年八月一〇日生)は本籍地に現住しており、照会のもの(本件の由松)とは別人と思われること、その身体的特徴として、丈五尺三寸位、ヤセ型、面長、丸刈で、現在五戸町役場市川支所の小使をしていること、同姓同名者として五戸町字鍛治屋窪一〇一所在川村由松(明治四一年七月一〇日生)もいるが、同人は十和田湖十和田観光ホテルの調理士として働いていること、以上のことが判明し、それを一〇月一一日と一二日にわたつて青森県警の方で警察庁を通して大井警察署宛回答した。右回答が大井警察署に届いたのは一三日、一四日ごろであつた。

9 渡辺巡査部長は一〇月一〇日採取した由松の十指指紋(前記6参照)を添付した死者身元照会書を由松の身元確認のため翌一一日作成して警察庁刑事局鑑識課宛送付し、右鑑識課保管の指紋資料と対照のうえ、その結果回答を求めたところ(死体取扱規則第七条参照)、同月一八日右鑑識課では該当原紙が発見できないことが判明し、その結果は同月二三日到達の文書により大井警察署にも判明した。

10 そこで渡辺巡査部長は同年一一月一八日由松につき身元不明死体票(死亡時、性別、推定年令、身体特徴、着衣の種類・特徴、所持金品等を記載し、胸部から上の写真と着衣の写真を添付したもの)を作成し、警察庁鑑識課に送付した。

11 昭和四一年一〇月七日東京駅で、由松の衣類・腕時計・失業保険証等の在中するボストンバッグが遺失物として拾得され、同月一一日に警視庁遺失物係に保管換された。同係巡査三橋満次は右ボストンバッグの中を点検した結果、遺失主判明の資料ともなりうるものとして鶴見公共職業安定所発行の川村由松名失業保険証を見つけたので、同巡査は同安定所に対し、由松に拾得物通知の件の連絡を依頼する葉書(同月一三日消印)を出した。

12 他方、被告港区と慈恵医大では、由松の遺体について次のようなことが行われた。

同年同月一一日慈恵医大は由松の遺体を学術用の解剖にする目的で解剖用死体交付の申請を被告港区に出し、同被告は右申請に応じ右遺体を慈恵医大に交付した。同大学では由松の遺体解剖に着手したのは同四二年五月一一日であつたが、それまではホルマリン等の防腐剤を体内に注射して防腐処置を講じた上、冷蔵庫に入れて保管した。解剖着手時期が右時期になつたのは大学のスケジュールの都合からであつた。

(二)  右(一)の認定に反する証拠等についての判断

1 被告東京都・港区、補助参加人らは、① 由松死亡当時の遺留品につき関係公務員が詳細な調査をした結果によれば、由松が黒ビニール製二つ折財布を所持していたがそれは本件財布(検甲第1号証の1ないし3)とは異ること、右財布中に本件手荷物切符はあつたが、本件納品書および本件小荷物切符は発見されなかつたこと、② むしろ本件納品書は由松の遺失物として昭和四一年一〇月七日東京駅で発見されたボストンバッの中にあつたことを主張する。そして証人渡辺金平・田中千一は右①の主張に沿う供述をし、同年一〇月九日田中・渡辺両巡査部長が民生病院で封筒に入つた由松の遺留品を受けとつたとき黒ビニール製二つ折財布を見たが、その内側も黒つぽくそこに会社名・電話番号の刻字を認めなかつたこと、右財布については二人で中側まで調べたが、本件手荷物切符が右財布の折れ目から一枚落ちてきただけで他には何も入つていなかつたこと等について詳細な供述があり、右証人のみでなく証人岩男英明・前田義男も右①の主張に沿う供述をし、田中・渡辺両巡査部長は由松の遺留品在中の封筒を大井警察署にもち帰り、右遺留品を再び田中巡査部長の机の上にひろげ、岩男巡査もまじえて再点検したが、右財布の中から本件納品書や本件小荷物切符を発見することはできなかつたこと等につき詳細に供述し、証人前田は右財布が本件財布と異るものであるとの供述の根拠として、本件財布のように「東洋興産株式会社電話五三七番」なる記載があつたとすれば、そのことを一〇月九日前田巡査部長が作成した前述((一)の1)死体及び所持金品引取書(丙第五号証)の所持金品目録備考欄の黒ビニール製二ツ折財布の項に記載した筈である旨を供述する。そして証人川村八太郎は右②の主張に沿う具体的な供述をし、前掲丙第34号証の一部(一四頁上段部分)には右川村証言に沿う記載部分がないわけではない。

2 しかしながら、

(1) 証人田中千一は本件手荷物切符の件につき、本件手荷物からは由松の身元を判明するに足りる資料はありえないと判断し、岩男巡査に本件手荷物につき再調査を命じなかつたと供述するが、これは民生病院で由松の遺留品を受けとつて調査したときは本件手荷物切符が身元を確認するうえで重要ではないかと判断してメモしたという供述および証人渡辺の供述中本件手荷物切符につき由松の身元を確認するには右切符を調べる以外に方法がないと田中・渡辺両巡査部長で話を交したとの部分と矛盾すること

(2) 証人岩男英明の証言によれば、岩男巡査は黒ビニール製二ツ折財布を手にとつてちよつと見た程度にすぎないことが認められること

(3) 証人前田義男の供述を検討すれば、前掲所持金品目録備考欄の記載は岩男のメモに基づいていること、右記載当日(昭和四一年一〇月九日)大井警察署には現金、男物腕時計、黒ビニール製二ツ折財布、認印しかなかつたのに、それ以外の衣類・作業帽についても前田巡査部長はその備考欄に特徴を記載していること、腕時計のメーカー名セイコーなるローマ字について判読ができなかつたということは同人が巡査部長たる地位にあることを考えるまでもなく理解しがたいこと等同証人の証言には、疑問を抱かざるをえない部分が存すること

(4) 田中・渡辺両巡査部長は、前認定のとおり民生病院において由松の遺留品を受取る前にすでに由松が単なる行旅死亡人で犯罪による死亡ではないという確信を有するに至つていたこと

(5) 前掲丙第34号証を全体的に読めば、特に同号証八頁上段一二頁下段の部分には、本件納品書が黒ビニール製財布の中にあつたとの記載部分もあること、同号証は一見して所謂宣伝用のパンフレットであることは明らかで、正確な事実調査の上で作成された文書とは必らずしもいいがたいこと等からみて、同号証一四頁上段の記載部分あるをもつて本件納品書がボストンバッグ中にあつたことを根拠づける証拠としては極めて不十分であること

(6) 本件手荷物切符が、懐中する財布に有りながら本件小荷物切符は死亡当時の由松の遺留品中になかつたということは、特段の事情が認められない限り、不自然であること

(7) 前認定の本件財布、本件納品書、本件小荷物切符の存在に関する判断に供した前掲各証拠……は、微細な点についての供述のそごが皆無ではないが、全体的にみれば一致していると認められること

を綜合すれば、前掲1の証拠は、たやすく措信できず、他に前記(一)認定を左右するに足りる証拠はない。

四由松を捜す原告らの活動及び由松の身元判明

(一)  <証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1 原告は昭和四一年九月桜田春蔵からの原告宛手紙により、由松を勤務先から田舎に帰すように言われたこと等を知り、由松に早急の帰郷を促す電話をしたが、由松の返事は要領を得なかつた。

2(1) 原告は同年一〇月一一日消印の桜田春蔵からの原告宛手紙により、由松はすでに梅田工務店を止め、鶴見によつていくといつて、名古屋を立つたことを知つた。

(2) そうこうするうち、同年一〇月六日由松が名古屋から送つたお茶等の入つた小荷物(前記一の(一)の6参照)が原告宅に届き、また警視庁総務部会計課遺失物係名の拾得物通知の葉書が原告方に配達され(前記三の(一)の11参照)、それににより由松のものと思料されるボストンバッグおよびそこに在中していた由松の失業保険証が警視庁遺失物係に届けられていることが判つた。

3 かくして、原告は由松の安否につき不安を覚えた。

(1) 原告は梅田工務店および由松がかつての出稼ぎ先といつていた横浜市鶴見区にある佐久間鋳工所宛に各手紙を出したのであるが、一〇月二〇日付の佐久間鋳工所からの返事では、「由松を右鋳工所で雇用したことはないこと、但し、右鋳工所の下請事業所たる株式会社岩崎組で雑役工として昭和四〇年八月から同四一年二月まで雇用したことがあること」が判つただけで、同四一年一〇月二一日消印の桜田春蔵からの返事でも「由松が横浜市鶴見区鶴見汐見町の方へ行くといつていたこと」以外には由松の消息は不明であつた。

(2) 原告の不安を察した小山田博見(由松の妹の子供)は昭和四一年一〇月二〇日青森県警察十和田警察署を訪れ、同署防犯係巡査出町善次郎に対し、由松が出稼ぎに出てからの右経過を説明し、由松の所在調査を依頼した。

4 出町巡査は右依頼を「困り事相談」として受理し、翌二一日青森県警察本部を通して愛知県警察の方に、「①由松の稼働中の健康状態、②帰郷の日時ならびに乗車した列車及び乗車券の行先、③所持金品、④その他参考事項」につき電話で調査方依頼したが、二四日「①右手が一寸不自由だがその他は変りない、②一〇月六日名古屋駅発で帰省している、③所持金は二六、〇〇〇円位、④その他所持していたものはボストンバッグ一個、風呂敷包一個、ダンボール包二個(うち一個は小包で自宅宛に送り、一個は鶴見(横浜)まで送つたが、そのときは鶴見までの切符でチッキをつけた)、本人は同年一月まで鶴見で働いていたので、また行つて働きたいと話していたこと」の回答を得たにすぎず、出町巡査はその旨を原告に連絡した。

5 ところで右の事情を知つた小山田博見やその母及び川村武(由松の兄の子供)らの間で由松の行方を捜す相談をした結果、博見と武が由松の遺失物を受取りに上京し、あわせて由松の行方を捜すことに話がまとまり、同年一〇月二三日両人は出発した。翌二四日午後二時三五分ごろ博見の妻のおじに当る川村八太郎(警視庁調布警察署勤務巡査部長)に案内を乞うて、警視庁総務部会計課遺失物係を訪れ、同係から出されていた前述拾得物通知の葉書を示し、同係巡査三橋満次に対し、博見らは由松の代理で由松の遺失物を受取りに上京してきたこと、由松は出稼ぎに出て音信が途絶えたこと、由松はすでに出稼ぎ先を離れているという前述一〇月一一日付桜田春蔵からの原告宛手紙を見せて(但し、同巡査に対し由松の写真を見せたことはない)由松のボストンバッグ(由松の失業保険証、腕時計、衣類入り)を受取り、その後すぐ横浜市鶴見区の佐久間鋳工所を訪れた。そして翌二五日愛知県の梅田工務店に行つて桜田春蔵に会い、話を聞いたが、桜田からの前掲手紙二通(一〇月一一日付、一〇月二一日消印)以上のことはわからなかつた。博見らは名古屋で一〇月六日の横浜駅宛の手荷物の送り状の控二枚を発見してメモし、帰途横浜駅で下車し、荷物の所在を尋ねたが、荷物が混雑していて見つけ出すのは無理だと駅員にいわれた。さらに再び佐久間鋳工所を訪れ、何か手がかりがつかめないか聞いてみたが、無駄であつた。

以上のように由松の所在場所については何らの手がかりもつかむことができずに博見と武は十和田に帰り、右結果を原告に報告した。

6(1) 右報告を受けた原告は、同年一〇月末ごろ川村末吉と二人で十和田警察署に行き、由松の行方が判明しないことを訴えて調査を頼み、同年一一月、一二月にも一人で或いは十和田社会福祉協議会の佐々木五郎と一緒に十和田警察署を訪れたが、依然判明しなかつた。

(2) 翌四二年一月二八日原告らは十和田警察署に行つて出町巡査に会い、警察で由松の行方を捜してほしい旨強く要請したので、同巡査は同署鑑識係事務吏員槇和男の協力を得て、由松の身体特徴、行方が判明しなくなる直前の由松の動静、立廻り先等を尋ねて家出人手配簿に必要事項を記入し、青森県警察本部の防犯課事務吏員相馬繁に由松についての家出人手配の要否について電話で尋ねたところ、相馬は由松が出稼ぎ人であつて家族の同意を得ていたのであるから家出人ではないし、しかも立廻り先が関東、関西方面の職業安定所又は工事場という特定の仕方では手配ができないこと、恐らく由松はたまたま職場を変えて他所で働いているのではないかと考えられること等を理由に結局由松を家出人として手配することはできないとして、その旨を出町巡査に回答した。出町はそのことを原告に伝達することなく、前記作成の家出人手配簿を参考資料として綴つておいた。同年三月二七日出町は青森県警察むつ警察署に転勤することになつたので、右家出人手配簿については、由松は家出人ではないと説明して槇和男に引継いた。

(3) その後も原告は同年五月末ごろまでに何度か十和田警察署を訪れたが、何の沙汰もなかつた。

7 毎年八月には被告青森県において各警察署に家出人相談所を設け、家出人の家族からの諸々の相談を受けていたのであるが、これに備えて十和田警察署の槇和男は原告に対し由松の消息を尋ねたところ、依然として不明であつたので、家出人票を作成することにより何らかの手がかりがつかめるかもしれないと思いつき、上司に相談してその了解を得、前掲家出人手配簿作成のときより、更にくわしい事情を聴取し、履物の種別、大きさ、所持風呂敷の特徴、所持金額、「川村」の認印所持の事実、言葉のなまりが南部弁であること等を記入した家出人票を同四二年六月二四日作成し、青森県警本部鑑識課へ送付した。そこでは右家出人票の写が作られて警察庁刑事局鑑識課に送付された。

8 警察庁刑事局鑑識課身元係事務吏員扇田静枝は青森県警から送付されてきた右家出人票を見て、氏名索引で調査したところ警視庁大井警察署作成・送付の川村由松の身元不明死体票(前記三の(一)の10参照)を発見し、右両票を対照した結果右票に記載されている川村由松が同一人ではないかと思料し、青森県警に調査確認を依頼した。そこで青森県警は十和田警察署に同年七月五日午前中に連絡し、身元不明死体票に添付されていた由松の写真がのつている身元不明死者の写真帳を届け、右調査確認を指示した。十和田警察署は原告に行方不明者の写真が県警から送られてくるので見にくるようにと連絡し、原告は由松の妹と一緒に十和田警察署に出かけた。そして、そこで原告は身元不明死者便覧別冊写真集の中に由松の写真を発見した。

五原告、由松の遺体と対面

(一)  前掲丙第34号証、成立に争いない丙第25号証、丁第14号証、証人関武夫(第一・二回)・加藤征・小山田博見・川村武の各証言、原告本人尋問の結果を総合すれば次の事実を認めることができる。

1 原告は由松の遺体引取の為、翌日(昭和四二年七月六日)の夜行列車で十和田を立ち、七日早朝東京に着いた。その足で大井警察署を訪れ、田中千一巡査部長に由松の遺体引取りにきた旨告げたところ、遺体は港区役所に渡してあるからそつちに行くよう言われたので、港区役所に向つた。

2 港区役所では関武夫が応対し、ここで原告は由松の遺体は身元不明死体として、慈恵医大に引渡されていること、そこでは由松の遺体が学術用解剖に供されていることを知つた。他方港区役所で関から受けとつた由松の遺留品の中にあつた本件財布の中味を調べるうちに、前述した成田山の御守、国電の切符のほか、本件納品書や本件小荷物切符等を発見した。そこで原告は博見、武らと本件納品書等を見ているうち、これらがありながらどうして由松が身元不明として処理されたのかという疑問を持ち、関に右疑問点をただしたが、関は「そのことについては警察に連絡したら必要ないだろうということだつた」という返事であつた。

3 原告らは由松の遺体引取の為に、関武夫に案内されて慈恵医大に向つた。すでに同医大の霊安室には、由松の遺体の入つた棺桶がクギづけにして置かれていた。当時の由松の遺体は、血管、神経、皮下脂肪、筋肉の状態を調査する為に、頭や上肢部分の皮膚ははがれ、筋、血管、神経は露出し、皮下脂肪も出ている状態であつた。自分の目で由松の遺体を一目確めたいという希望を申出ると、応対にでていた加藤征医師は中を見れば気持が悪くなるから、といつて、見ないようにすすめたが、原告がたつて希望するので、一たん棺桶を引きさげ、遺体に布を巻いた上で棺桶のふたをとつて原告らのいるところへ持ち運んできた。由松が出稼ぎに出てから一〇か月半ぶりで、死後九ケ月を経た遺体と対面した。

第二原告の受けた精神的苦痛

前認定のとおり、原告は夫由松の所在が不明となつてから、不安・焦躁の九ケ月を経て、始めて既に夫が死亡していることを知つたのであり、しかも原告の対面した夫の遺体は本人および原告の同意なく解剖にふせられていて、無惨な姿となつていたのである。このことによつて受けた原告の精神的苦痛は、一般的な死別の悲しみとは別個のものであり、それが他人の違法な行為によつて与えられたとすれば、慰藉料を請求しうることはいうまでもない。

第三被告らの責任・因果関係

一補助参加人について

(一)  責任

死体取扱規則(国家公安委員会規則)は、警察官が死体を覚知した場合の死因調査、身元照会、遺族への引渡、市区町村長への報告等その死体の行政上の取扱方法および手続その他必要な事項を定めている(第一条)のであるが、その第四条は死体がある旨の報告を受けた警察署長は、死体が犯罪に起因するものでないことが明らかである場合は、自ら又は所属警察官に身元の調査を行わせなければならない旨規定している。

しかし、身元調査の方法については、身元照会書等による警察庁又は府県の鑑識課に対する照会(第七条)のほかには、何らの定めがない。従つて、警察署長は調査にあたつては、その時における全事務量および各事務の緊急性・重要性を比較考量した上で、当該調査事項に相応する方法・程度を選択して、これを行わなければならない。すなわち、調査の方法・程度は、その裁量に委ねられているものということができるが、裁量にあたつては最善の方法を選択し、合理的・合目的的な調査を行なうべき義務があるものといわなければならない。

そこで、本件についてこれをみると、

1 大井警察署は、前記認定のとおり、氏名照会、警視庁管内各警察署への手配等形式的な調査のほか、労務者収容施設、岩崎組関係の調査等実質的な調査をもかなりの程度に行つていることが認められる。しかしがら、前記認定のとおり、本件手荷物切符のほかに存した本件小荷物切符および本件納品書を見おとしてしまつたのである。

2(1) そして、本件手荷物切符については、横浜駅に電話照会をしていることは、前記認定のとおりであるから、本件小荷物切符を発見していれば、これについて三本木駅に照会をすることも容易になし得たはずである。当該小荷物は三本木駅着で荷受人宛に配達されるものであつたから、右照会を行なえば、少なくとも荷受人の氏名、住所が判明することは明らかであり、更に荷受人について調査をすれば、発送人の身元も当然明らかとなるべきものと推認されるものである。

(2) 本件納品書に「大陸食堂様、昭和四一年七月二四日、十和田市初田七ノ三、有限会社米田製材所取締役米田徳次郎、電話二一八一番」なる記載があることは前に説示したとおりである。そして納品書の作成者(発行者)とその所持者とには通常商売上の関連があるのであり、しかも納品書に記載された右住所および本件小荷物切符に表示された三本木駅と由松が「青森県の川村由松」といつていたことをあわせ考えれば、本件納品書と由松との関連が密であることは容易に推認しえ、従つて右記載の電話番号宛に電話照会すれば由松の身元もすぐに判明したものと推認されるのである(ちなみに原告本人尋問の結果によれば米田製材所は大陸食堂のすぐ近くにあり原告夫婦とは互いに知悉していることを認めることができる)。

(3) 右の事実からみると本件小荷物切符および本件納品書は身元調査のための最良の資料の一つといえ、大井警察における調査は、右書類の存在を見おとしたか、もしくはこれを発見しながら、これについての調査をしなかつたという点において過失があるものといわなければならない。

3 原告は、由松の所持品であつた本件財布について調査しなかつたことをも、大井警察署員の過失の一事由として主張する。原告主張のとおりの本件財布が存在したことは、前認定のとおりであるが、右財布に表示された東洋興産株式会社と由松との関連性は必ずしも右表示自体からは明らかとはいえないから身元調査の有力証拠と認めなかつたことおよびその調査をしなかつたことをもつて、直ちに調査義務の懈怠と認めることは、相当でない。

4 なお原告は、大井警察署員渡辺金平巡査部長は、由松の身元不明死体票の作成を約一ケ月遅滞したことおよび警視庁遺失物係三橋巡査が小山田博見らの申出に基き由松の身元調査の手続きをなすべきであつたのにそれをしなかつたこと等を重大な過失として主張する。しかし、前者についていえば、確かに身元不明死体票の作成が一ケ月以上も遅れたことは職務怠慢といえなくもないが、前認定の諸事実から明らかなように、右作成の遅滞と本件損害との間には因果関係が存しないから、本件においては法的に意味はない。また後者についていえば、前記認定の諸事実に徴すれば小山田博見らにおいて、三橋巡査に対して由松の身元調査を積極的に依頼したとは認めがたく(かえつて、証人小山田博見の証言によると、同人は同年一〇月二〇日十和田警察署の出町巡査に由松の調査を依頼していたので(第一の四の(一)の3の(2)参照)、警察に対する依頼はそれで十分だと考えていたことが認められる)、三橋巡査が由松の身元調査の手続きをしなかつたからといつて、同巡査に過失があつたと認めることはできない。

5 以上によれば、由松の身元調査に従事した補助参加人所轄下の大井警察署署員には過失があつたものといわなければならず、それはその指揮監督すべき立場にある補助参加人の過失と同視すべきものである。そして弁論の全趣旨によれば補助参加人が被告東京都に警察官として任用されている地方公務員であつたこと、従つて同被告の公権力の行使に当る公務員であること、由松の身元調査の為の活動はその任務を行うについてなされたものであると認めることができる。

(二)  因果関係

前認定の事実によれば、大井警察署警察官において、本件小荷物切符にもとづき三本木駅に照会を発しあるいは本件納品書に基き調査しておれば、由松の身元が判明したことは明らかであり、原告としては少なくとも九ケ月にわたり不安・焦躁の思いをすることなく、かつ、由松の遺体は解剖されることはなかつたはずであることも疑い得ないところである。

そして、補助参加人が、身元不明死体は一定期間経過ののち学術用解剖に供されるということを知つていたことを、直接認めさせる証拠はないが、死体解剖保存法第七条第一号によれば「死亡確認後三〇日を経過しても、なおその死体について引取者のない場合」には遺族の承諾がなくても死体解剖ができることを規定し、同法第二条は死体解剖ができる者の資格等について、同法第一二条以下には引取者のない死体を医学の教育又は研究に資する見地から医学に関する大学の長からの遺体交付の要求、遺体の保存等について規定している。また、司法警察職員が関与する刑事訴訟法の死体解剖(同法第二二二条第一項、第一二九条、第二二五条)の根拠法規は死体解剖保存法第二条第四号にあること、死体取扱規則第四条に基く警察官作成の死体見分調査には「検案の結果及び意見」を記入する欄があるが、検案をなす監察医が死因判定の為に死体解剖することができる(前記第一の三の(一)の6参照)がその根拠法規は死体解剖保存法第八条にあること(同法第二条第三号参照)等に徴すれば、大井警察署署長職にあつた補助参加人が同法を知らなかつたとは考えられず、従つて、身元不明死体が解剖の用に供されることのありうることは、知つていたものと推定することができる。

(三)  被告東京都の責任関係

右(一)・(二)に説示したところから明らかなとおり、被告東京都は補助参加人の行為により被つた原告の損害を、国家賠償法第一条第一項の規定により賠償する義務がある。

二被告港区について

(一)  責任

行旅病人及行旅死亡人取扱法第七条の規定によれば、特別区の区長は行旅死亡人の状況相貌遺留物件その他本人の認識に必要な事項を記録すべき旨、また死体取扱規則第九条第二項の規定は、身元不明死体は管轄する警察署長が所定の手続を終えた後市区町村長に対し、着衣、所持金品等とともに引き渡さなければならず、この場合死体及び所持金品引取書を徴しておかねばならない旨規定するが、これらの規定は特別区の区長において、身元不明死体の同一性が問題となることに備えて、識別をなしうるような資料を保存しておき、また身元が判明した場合に、遺族に遺体もしくは所持金品の引渡をなすにあたり、誤りなきを期する趣旨と解するのが相当である。

もつとも、前記法律第九条は、「本人ノ認識ニ必要ナル事項ヲ公署ノ掲示場ニ告示シ且官報若ハ新聞紙ニ公告スベシ」と規定している。これは、身元不明者の特徴を一般に知らせ、遺族もしくは知人の申出でをまつ趣旨と解せられるが、この規定をもつて、市区町村長において、積極的に身元調査をつくすべき義務があることを根拠づけることはできない。しかしながら、右規定により、少なくとも告示・公告をなすべきことは、市区町村長に義務づけられているのである。被告港区は、本件については、氏名が知れているのであるから、本条の適用はない旨主張するが、右同条の趣旨からみて、氏名のみ判明していても、住所居所が知れず、かつ、遺族・知人を知ることができないときは、告示・公告をなすべきものであると解するのが相当である。

被告港区が本件につき、告示・公告をしなかつたことは、当事者間に争いがない。そして、告示はともかく、少なくとも官報への公告をしていたならば、当時原告は十和田警察署に由松の所在調査を依頼していたのであるから、同署の警察官等において、官報により由松が身元不明の病死者となつていたことは知り得たものと推定することができる。また、身元不明死体が一定期間を経過すれば、学術用解剖に供されることがあることは、区役所の担当職員としては、当然知つていたものと推認することができる。とすれば、港区役所の担当職員関武夫らが公告をしなかつたことは、職務を怠つたものであり、それは同職員らの過失によると認めざるをえないというべく、これによつて生じた原告の精神的苦痛に対して、被告港区はその責に任ずべきものといわなければならない。(本件において関武夫らが港区長の指揮監督下にあり、港区長が被告港区の公権力の行使に当る公務員であり、右告示・公告がその職務に属することはいうまでもない。)

なお、被告港区は従前から慣例の上告示・公告はなされていないから、本件について告示・公告をしなかつたことについて、職員の過失はない旨主張しているが、前記法律の規定を失効させるに足りる慣習法の存在を認めさせる証拠はないから、右主張は採用できない。

(二)  右に説示したことから明らかなとおり、被告港区は、原告主張のように同被告において青森県全域の住民票・戸籍等の調査をすべき義務があるかどうかを問うまでもなく、港区長の行為により被つた原告の損害を国家賠償法第一条第一項の規定により賠償する義務がある。

(三)  被告東京都の責任関係

証人関武夫の証言によれば、関武夫は被告東京都の採用になる職員で同被告から給料の支払いを受けていることが認められる。従つて同被告もまた国家賠償法第三条第一項の規定により原告の被つた損害を賠償すべき義務がある。

三被告青森県について

(一)  十和田警察署員の過失・因果関係

前記認定の諸事実からすれば、原告らの由松を捜してほしいとの度重なる要望に対して十和田警察署員らのとつた処置が妥当であつたかどうかについては疑問がないわけではない。しかし、仮りに右署員らに原告主張の如き過失があつたとしても、それと原告の被つた前記損害との間の因果関係の有無については、本件全証拠によるもこれを肯定するに十分でない。

(二)  青森県警本部警察官らの過失・因果関係

原告は大井警察署からの前記照会に対する青森県警本部の対応処置が極めて不十分であつた旨主張する(請求原因第二の三の(五)参照)。しかし、前記認定の事実からすれば、右対応処置に過失があつたとはいいがたく、他にその過失を認めるに足りる証拠はない。

(三)  以上の次第であるから、その余の判断をするまでもなく、原告の被告青森県に対する請求は理由がない。

四被告国について

身元不明死体の身元の確認を行うべき義務は、地方公共団体の存立目的たる公共事務所謂固有事務(地方自治法第二条第二項参照)に属するものというべく、たまたま警察権を行使する官庁が身元不明死体の身元確認義務を負うからといつても、それは権力的手段によるものでもないから、実質的意義の警察観念には入らず、警察官庁が右義務を負うという意味で、形式的義務の警察観念に入るといいうるにすぎない。従つて、原告主張のように、身元不明死体の身元調査が本来広域的であること、身元不明死体票が警察庁に保管されるという事実でもつて、機関委任事務ということもできないのである。よつて、前記補助参加人の行為に過失があつたからといつて、その行為が国家賠償法第一条第一項の規定にいう「国の公権力の行使」であるということはできないから、その余の判断をするまでもなく、原告の被告国に対する請求も理由がない。

五被告東京都・港区の関係

両被告の前記損害賠償義務の法的関係について考えるに、原告の本件損害は両被告の過失が競合して生じたのであるから、両被告の関係は共同不法行為の関係にあるものというべく、従つて両被告の賠償義務は不真正連帯債務の関係になる(国家賠償法第四条、民法第七一九条第一項)。

第四過失相殺の抗弁について

被告東京都港区、補助参加人らは、由松が学術用解剖に供されたのは、由松において自己の身元を言えるのにそれを述べずに死亡したことに起因するのであるから、原告側にも過失があり、原告の損害額を算定するに際して斟酌されなければならない旨主張するので、この点について判断する。

前認定のとおり由松は京浜中央病院では自己の住所を述べることはできる程度の心身状態にあつたのに、それを述べなかつたし、更に民生病院においては、生年月日までは正しく述べているのに、本籍地については自らいつわりを述べているのである。右のとおり、生年月日、氏名および青森県からきていることまでは正しく述べておりながら、住所だけは特に秘匿したことの真意がどこにあつたかはともかくとして、由松が住所を正しく述べてさえいれば、原告には直ちに通知がなされていたであろうことは疑い得ないところであるから、原告の受けた本件精神的苦痛は、由松の右行動が発端となつて生じたものといわざるを得ない。もとより、右の事実により、被告東京都および被告港区の身元調査・確認に関する注意義務が不存在となるわけではないから、本件慰藉料の額の算定にあたつて、右由松の行動を斟酌することとする。

第五結論

原告および由松の経歴、生活関係等が、ほぼ原告主張のとおりであることは、原告本人尋問の結果によつて、これを認めることができる。右の事実および前記してきた諸般の事情を総合した上で、原告の受けた九ケ月余の不安・焦躁と由松の遺体解剖によつて受けた苦痛を一〇〇万円と算定し、前記由松の行動を斟酌して、被告東京都および同港区に支払いを命ずべき慰藉料の額を、右金額の半額五〇万円と定める。

よつて、右被告両名に対し連帯して金五〇万円とこれに対する本件不法行為発生後の昭和四四年七月一八日(東京都に対し)および同年同月一九日(港区に対して)からに払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で原告の本訴請求を認容することとし、その余の請求およびその余の被告らに対する請求はいずれも棄却するものとする。

その二・・・・由松の出稼ぎそのものを原因とする被告国に対する損害賠償請求

一原告が本件請求の原因として主張することの要旨は、「出稼ぎの実態をみれば、出稼ぎに出ること自体が当人およびその家族にとつて一つの損害であるが、由松の場合出稼ぎに出た結果死亡したことから明らかなように出稼ぎにさえ出なければ本件のようなことにならなかねた。そしてその由松の出稼ぎは、直接的には生活保護申請に対する国の機関の違法な却下に、根本的には国の違法な農業政策に起因するものであり、このことによつて原告の被つた損害は五〇万円を下らないので、被告国は原告に対して右損害を賠償する責任がある」というにある。

二家族の中から出稼ぎに行くものが出るということ、殊に夫婦の一方が出稼ぎに行くということは、家族にとつて好ましい状態でないことはいうまでもない。しかし出稼ぎ者は出稼ぎそのもののもたらす不利益の諸事情を考慮に入れたうえ、それのもたらす利益の面に着目し、利益考量したうえ、自らの判断で出稼ぎに出るのである。従つて、出稼ぎに出た、ということをもつて、直ちに国家賠償法第一条にいう「損害」にあたると解することは困難であるといわなければならない。もとより、国民各層が自己の本業をもち、その本業にいそしむことにより安定した生活をすることができ、不自然な家庭環境を生ぜしめる出稼ぎなどしないような社会であることが望ましいことは、何人も否定しないであろう。しかし、このことは国の経済力と政治とにかかわる基本的課題ともいうべきものである。従つて、国民の一部に出稼ぎ労働をせざるを得ない状況があるとしても、国の農業政策の一面をとりあげて、その政策の当否を判断することは相当ではないのみならず、裁判所の判断事項の限界を超えるものといわなければならない。また国家賠償法第一条にいう公務員の職務行為には、右のごとき国の基本政策の決定は含まれないものというべきである。

また、由松の生活保護申請が違法に却下されたとの点については、前認定の事実からは、保護申請および却下処分があつたとみることはできない。本件においては、原告主張には保護基準を定めている国の生活保護行政が違法であるとの主張を含むものと認められるが、生活保護を受けられなかつたことは、出稼ぎの原因となつたとしても、一般的に出稼ぎに出ることは、その者の所在不明、死の原因となるものと認めることはできない。従つて、仮りに保護行政に違法の点があつたとしても原告の受けた損害との間に因果関係を認めることはできない。

以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の国に対する本訴請求は理由がないから棄却することとする。

(結論)

よつて訴訟費用につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条第一項、第九四条、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(西村宏一 安達昌彦 簑田孝行)

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